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神と人のあり方   13

  真の財・幸福

  目に見ゆる 肉の衣や 物はみな
      何れはかなく 消ゆるものなり

  さきの世の 又さきの世へ つづくもの
      これがまことの しあはせなるぞ    (六八)

 人間さまのお宝を拝見すると、ほとんどが申し合わせたようにりっぱな豪邸だとか外車だとか、年代ものの高価なお皿や御椀、壷といった陶器類であるとか、掛け軸や書き物、昔の思い出の品物など等、実にさまざまである。中には美人の奥様方や、出来のいい子供だとか、家族が私の宝だとか何とか…。そして同窓会やなにかの会合を覗いて見ると、これまた人間様の自慢話といったらなく、どこそこの中学や高校・大学を出たとか、どこそこに就職して沢山の報酬を得ているとか、学生時代はとても成績がよかったとか、企業でこんなに出世したとか、事業で大儲けしたとか、こんなに優雅な生活をしているとか、皆それぞれに自慢話に花を咲かせ合っている。

 確かにそれらは、その人にとっては大切な何物にも替え難い宝なのであろうし、またそれら一つ一つは、誰でもが自慢したいものばかりであろうし、それはそれで悪くはない。他人がどうのこうのと、とやかく言う筋合いのものでは決してないのだ。
 だが、それらは共通してすべて、いつかは時の経過と共にはかなく消えて行くこの世限りのものであって、死んであの世へは決して持ってはいけないものばかりである、ということもまた事実なのである。

  うつし世の 富や宝や 位など
      肉の衣の 身にある迄ぢや

  現し世の 富も位も 積む雪よ
      やがてはとけて 跡かたもなし

 こうして吾が一家はみんな健康で何事もなく、日々何不自由なく暮らしてゆけるし、自慢の家や高級外車や、素晴らしい友人も沢山居るし、とても幸せ…と色々並べ立てて行く内に、そう言っている人達は時折フッとむなしくはならないのか。聞いているほうは「人生の真の意義も知らずに、何と可哀想に」としか思えないのに…そのような状態が果たしていつまで続けられるものか、その人がこの先、いつどうなるかということは一体誰が知ろう。栄枯盛衰は世の習いであるし、奢る平家は久しからずとも、また釈迦牟尼仏陀は「諸行無常」とまで説かれたではないか。まして今は大企業でも銀行でも保険会社でも次々に潰れて行き。この日本丸までが傾き、沈没しかかっているというのに…である。

  今の世の しあわせなどは これ陰じゃ
      いずれは消えゆく ものとこそ知れ

  病なく うつらふ宝を 抱きしめ
      誇り顔する 氏子あはれさ

  些かの 宝持ちたる 人々よ
     やがては消えむ 己が業にて   (一〇六七)

  業をもて 消ゆる宝の 空しさを
     悟れ氏子よ はかなきものと   (一〇六八)

  業に消えぬ 真の宝 頂けよ
     神の教へを 大本として     (一〇六九)

 このように、その人をよくよく見ていると、どんな人でも大抵は「この世だけがすべて」と思い込み、この世だけの人生設計を立て、「この世だけの幸せ」を夢に見、現世中心の生活に日々あくせくしているものであり、「あの世のしあわせ」「あの世の住まい」のことなど考えて暮らしているような人には一人も出くわさない。
 このように言うと、「何と意地悪な」とお思いの読者もおられようが、私はというか、御神霊は誰もが何事も無い内に、今のうちに人生の第一義を皆に知っておいて欲しいからこそ、あなたの意に留めてもらえるようにと、強調して言っているのである。「本当のしあわせ」というものが一体何であるかを!。二度とはないこのかけがえのない尊い人生を一体どのように生きることが「真に生きる」ということなのか、此の世の「本当の宝」が何であるかを!

  火花散る 短き此の世に 現れし
      そのことはりを 神が知らせむ    (六二六)

  幾千萬年 消えぬ宝を 持つ氏子
      神のいとし子 しあはせ者よ

 あなたがこれまで人並み以上の暮らしをしてこれたのは、あなたがこれまで何とか生きてこれたのは、勿論、あなたの努力と精進の賜物であろう。ところがしかし、実はそれらはすべてあなたの親・先祖のお徳の賜物でもあったのだ。また、家族や友人や、あなたを取り巻く多くの人々の力・支えがあったればこそである。あなたがもしも寝たきりの身体であったなら、あなたが寝返りもままならぬような体であったなら、いかに努力しようにもこれまでのように満足には出来なかったではないか。こんにちの自分は到底あり得なかったではないか!

 あなたは自分の身体の一部、例えば心臓や腎臓や肝臓やそれらの機能のどれ一つであっても、あなたの自慢のその強い意志で、その自慢の頭で、豊富な知識で、何一つそれ等を自由に動かすことも止める事すらも出来ない、実に非力な己れであるということを、決して忘れてはならないのである。

  幸せは この世のことは まずおきて
      先の世のこと これがまことじゃ   (六六)

  世の中の 富や宝も 皆夢じゃ
       さめて残るは 神の道のみ

  宝とて 多すぎるほど 要らぬもの
       あまる宝が 災ひとなる    (四七五)

  氏子やがて 肉の衣を ぬがむ時
       何をあの世へ お土産とする  (五〇九)

  代々の祖 霊魂供養の 有り難さ
       その喜びは 身の幸となる   (一六一三)

  吾が幸を 吾が求むるは 誤りぞ
      先祖助けよ 人を助けよ    (一六一四)

  助けられ 喜ぶ念の 働きが
      吾が身に来てぞ 吾が幸となる   (一六一五)

  世の宝 わが念力で 取れぬもの
       神と先祖の 念力による     (一六一六)

  誠なる わが念力が 神と祖に
       届いて後に 宝授かる      (一六一七)

  宝をば 求めて祈る 要はなし
       神と先祖に 任せおくなり    (一六一八)

  己が心 この袋をば 先づしらべ
       中に容れある ものをよく見よ   (二一OO)

  いれものの 中にえ知れぬ ものあらば
       宝を入れむ すべはなきなり    (二一○一)

  困るのは 得知れぬものを 大切がり
       袋につめて 守る人なり      (二一○五)

  捨てよ捨てよ 己が心に 入れてある
       此の世の業を 借しまず捨てよ   (二一○六)

  祈りつゝ 神をいじめる 人多し
       この理を よく悟れかし    (二一○八)

  やがて散る 浮世の宝 求むるな
       色深みゆく まことの宝

        (『日本神道の秘儀より』掲載)