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「神道行法」考 鎮魂力を鍛える

はじめにーある三歳の孫の話

神道は敢えて言うならば祖先崇拝の道であり、忠・孝・敬神・崇祖の道であるといえよう。神道を持ち出すまでもなく、親・先祖を大切にすることは人として最も大切な根本の道であると言ってよい。そもそも神祇の奉斎は報本反始のまことを致すものである。恩になったら恩に報いる、受けた御恩はお返しするという至孝の精神が失われたら、それこそ殺伐とした世の中になることは必至であろう。今日、一般人ばかりか神職の方々であっても、幽と現との区別が分らず、ために神典を誤って人為に解釈し、幽事を現事とし、神を人とし、幽現をまったく混同している御仁が甚だ多いのであるが、これは霊学を学んだことが無きためであろうと思われる。

神霊の実在や神界の厳在すること、霊魂(ひ霊・たま魂)とはく魄との関係、親・先祖など死者の御霊を慰霊安鎮することの大切さなど等、霊魂に関する諸問題は人間の知性や理性のはたらきをはるかに超えたものであり、従ってそれを明らかにするには「霊には霊を以て対する」霊学より他にないものであるが、神仕えする神職にとっては「霊魂観の確立」は重要不可欠なものであるといえる。

先日、何気なく某新聞に目を通していると、その「聴診記」という欄に次のような記事が目に入った。

私の祖父、祖母、伯父の三十三回忌の法要が先月営まれた。お経のあとでお坊さんは、「そもそも仏になった死者を供養する必要はなく、法事とは生きている人たちのためにあるのです」と言った。

というのである。

この僧侶は死者のみたま御霊に対する慰霊供養が如何に大切なことであるかを全く知らず、死者を偲ぶ心やその作法がスッポリと抜け落ちている。このお坊さんは恐らく浄土宗系の僧侶だったのだろう。そもそも法事とは本来仏の教えを説法しまたそれを聴聞するものであった。日本人古来からの霊魂観に照らして言えば、仏教は日本人の御霊まつりとは本来異質な教えであり、民俗学の柳田國男が言った如く、仏教は神道を取り込み、今日まで生きながらえて来たものである。

仏教はもともと無神論、無霊魂観であり、インドのヒンズー教徒では、古くから一般民衆は墓を造らず、火葬して骨にしてからガンジス河に流すのがしきたりで、インド建国の父であるガンジーとネルーも墓は単なる記念碑で遺骨は川に流されている。

浄土真宗の親鸞聖人は「閉目したら加茂川に流して魚の餌にしてくれ」と遺言したが、どうしたことか立派な墓が建ち、今日に及んでいる。実に、信従すべからずである。

『歎異抄』には、

「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返に  ても念仏申したること、いまださふらわず。
そのゆゑは、一切の有情は、皆もって、世々生々の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に、仏になりて、たすけ候ふべきなり。

とあるように、親鸞聖人は自分の父母のために追善供養をしたことは一度もないというのである。僧侶が六道を輪廻転生する迷いの淵に在る身であれば、到底先祖のみたま御霊なぞ助けられまい。死者の御霊供養が不要とあれば、葬式や戒名、お墓などの無用論が出てくるのもむべ宜なるかなである。

もともと仏教は葬式とは無縁のものであり、また、奈良時代に我が国に成立した仏教(南都六宗)は鎮護国家仏教であり、仏教寺院は葬式仏教とは一切関わりが無かったのである。

生を明らめ死を明らむることこそ仏家一大事の因縁なのであったが、今では真の意味で出家得道するような僧侶は見られず、次々にインスタント住職が増えつつあるといった現状である。

数年前、「私の御墓の前で泣かないでください。そこに私はいません。眠ってなんかいません」などといった歌詞の歌が一時流行ったが、墓場には御霊(はく魄)が鎮められているということを全く知らず、また霊魂に関して考えてみたこともない無知な者の作であることは言うまでもない。

明治11年に風葬が禁止され、土葬するようになったが、鹿児島県与論島では死者を弔うヤーナー祭、即ち洗骨儀礼が行われている。立派に守り神となった死者霊はやがて海に帰り、そして海の神と一体となり、人々に恵みを齎すという信仰が今も生きている。死者の遺骸を埋めた墓を掘り起こし、もしも遺骸が未だきれいに白骨化していない時には、此の世にまだ未練があり、「守り神」になっていないのだとして、元の土に戻す。

また、沖縄ではシーミー(清明祭)があり、親・先祖の墓の前で家族が食事をするしきたりを今でも守っている。

土葬によらずして遺体を焼くというのは果して死者にとって喜ばしいことであるのか、一考を要するであろう。

火葬は道昭(飛鳥時代の法相宗の僧)をその初めとするが、今日では殆ど(96~97%)が火葬に付されている。遺体を焼かれた死者の恨みは深く、墓地は例え霊学者でもスッカリ祓い清められぬというのが現状である。またその上、遺骨を単なる物としてしか見ていない者たちが、お骨を粉にして海や山、空に撒き散らす「散骨」が流行っているようだが、これは霊学者から見れば、魄をばら撒いて、世界を穢し汚しまくっている行為そのものである。霊魂観が無いとはいえ、あまりに無知な者の仕業である。

約20万年前に出現したネアンデルタール人にはすでに死者を埋葬する習慣があり、使者を悼んで数種類の花を添える習慣があったとも言われているが、日本では縄文時代にはすでに死者を埋葬する習慣があったことが知られる。『日本書紀』神代上、第五段、一書第五には、

伊奘冉尊、火神を生む時に、灼かれて神退去りましぬ。故、紀伊国の熊野の有馬村に葬りまつる。土俗、此の神を祭るには、花の時には亦花を以て祭る。又鼓吹幡旗を用て、歌い舞ひて祭る。

と見え、頭注に「当時の地方の魂祭りの状況を知ることが出来る」と説明している。また、同書の補注Ⅰ‐四六には、三重県熊野市有馬の海浜に花ノ窟という巨岩があり、毎年二月・十月に巨岩から付近の松の梢に注連縄を懸け、神官や村人が花を供える、とある。

この所伝は『古事記』上巻、神々の生成の段には

故、其の神避りし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りき。

と見える。

日本文化を破壊しているのはなにも流行歌だけではない。映画もまた同様である。伊邪那美神は黄泉神とあげつら論う間「我をな視たまひそ」と願ったにも拘らず、伊邪那岐神はその「見るな」のタブー(禁忌)を犯して一つ火を灯して遺体を見てしまう。その為、みかしこ見畏みて逃げ帰ることになるのだが、その時に伊邪那美神は「あれ吾にはぢ辱見せつ」と言ってよもつしこめ豫母都志許賣を遣わして伊邪那岐神を追わせている。

つまり、死体をのぞ覗き見することは死者をはずかし辱める行為であり、死者への最大の冒瀆になるのであるが、古典を読んだこともない者たちにはそうしたことすらも分からなくなってしまった。今日、死装束や死化粧、納棺、野辺の送りの一切を第三者である納棺師や葬儀社が一つの職業として執行し、遺族はそれを為すがままにジッと見守るという状況が生じている。

高度経済成長期(1960~70年代)に伝統的な葬儀のあり方が一変し、在宅死から病院死へ、土葬から火葬へと比率が逆転してしまい、最も人間の尊厳を守るべき死や葬儀というものがスッカリ商品化され、企画化されてしまったのである。

いまや、インターネットでの神社や墓地が出現し、神社参拝もお墓参りもキーボード操作で行うという、寒々とした光景が現出しつつあるのである。

7月末に某知人の母親が帰幽されたが、斎場で3歳になるその孫が祭壇を指さして「お母さん、あそこに人がいるョ」と言ったという。また、お墓参りに行った時に、やはり3歳になる他の孫が墓地を見渡しながら「周りに人がいっぱいいるヨ!」というので、父親たちの方が「そんなことを言うと、恐くなるじゃないか」と震えたという。

例え目には見えずとも、たましひ霊魂とくに人間の「はく魄」が墓場に寄り集まっているのは確かな事実である。

祈りの力

「もう、駄目だろう」と誰からも思われていた人が、あらゆる失意や挫折、困難、病苦などの絶望の淵から奇跡的に脱出し、死の淵から見事に生還することがある。奇跡ともいえるような出来事が信仰の有無や神・仏などといった信仰対象の違いを問わず、また宗教の有無を超えて頻繁に起こっているが、それは一体何故なのか、助かる人と助からない人の間には一体どんな違いがあるというのか、私とは果して何者か、生きるとはどういうことなのか、人はどのように生きるべきなのか、人は死んだら何処へ往くのか。

こうした誰もが皆、真摯に直面すべき実存的不安を避け、それから必死に逃れようとしている。

お里と座頭の沢市が壺坂寺の観音様に必死に祈願し、最後には観音の霊験に浴して劇的に目が開くという、うるわしい夫婦愛の物語である『つぼさか壺坂れいげんき霊験記』は、誰もが知るところであろう。

人はどうにもならない絶望的な極限状況に置かれたときに何かがはじけ、何かが目覚める。その時初めて、人は大いなる生命に生かされて生きているということを現実に思い知るのだ。それに私たちは誰も気付いてはいないが、人は誰も目に見えざるものに生かされて生きているのであり、日々生きて死んで、また、生きているのである。自分の身体といえどもお預かりしたものであり、決して自分の自由にはならないのである。人間とはまことに霊妙かつ無限の可能性を秘めた存在であるといえよう。

「あの患者は今日が峠だ」と思われる重病人がいた。病人が「最後にお坊さんの有り難いお話を聞きたい」としきりに願うので、患者の最後の願いを叶えてやろうと、快く僧侶が病室に入ることを許可した。そのお坊さんが病人に一体何を話したかは分らないが、なんとその重病人はそれからみるみる元気を回復し、一ケ月後には立派に回復して退院していったというのである。

これは荻野式で著名な荻野久作医師が体験した実話である。信仰とか信心などというが、それは「信」なくしては有り得ないし、成り立たないものである。一心不乱というが、必死のうちにこそ神は居給うのである。決死一番、どうにもならない状況から引き上げられた体験を持つ者は、「信」の一文字が生死を分けるのだという、その真の意味を心底知っている。まさに人生は修業道場であり、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」である。

本田親徳翁の『産土百首』の初めに「うぶすな産土に生れいで出つつ産土に帰る此の身と知らずやも人」という歌があるが、人は如何なる時にもうぶすなの産土神と心を通わせておくことが大切であり、咄嗟の時には思わず「かみさま神様!」或いは「かんながらたまちはえませ惟神霊幸倍坐世」と心に強く念じることにより、産土神にスゥーッと救い上げられる。神の実在を心の底から信じて、常に「われ、神ととも倶にあり」という強固な信念を養成することこそが大切である。