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神と人 禊ぎ

「人=霊止=ヒをとど止めるの意」。霊学では人とは神のみたま「直日霊」を止めている存在と解しています。それを人は神の御子とされる所以です。私ども人は神と同じ霊性を戴いている、ある意味では神そのものであります。そして、この地上を神の代わりとして創り上げ治める使命を持つ者、すなわちミコト持ちなのです。人はその目的の為にこの世に生まれ出て、自分の魂を成長させつつ使命を果たす存在なのです。また、人は等しく神の分け御魂を持つ存在であるがゆえ、神の御前では霊魂の存在として完全な平等です。

しかしながら、人は誰しも、しばしば意識的、無意識的に関わらず、私利私欲私情の影響を受け、情動、行動してしまうものです。この私利私欲私情から、争うこと、怒ること、悲しむこと、悔やむこと、ねたむこと、取り越し苦労、過ぎ越し苦労が生じ、果ては、神道でいうところのケガレとしてその関連した人や物、空間に残留するのです。そうしたケガレが人に積もっていくと不幸の因として、子孫に継承されていきます。そのような状態では、折角賜った「直日霊」も台無しです。

そうした状態を脱する為、神道では「禊ぎに始まり禊ぎに終わる」という言葉に象徴されるように「禊ぎ」を大切にして参りました。私利私欲私情で曇り穢れた霊魂を祓い清めて、浄心し、無心となった時に直日霊は、本来の輝きを取り戻し、活動するとされています。それは神心を写し取る鏡のようなものとなり、神のご意志に適う形で、多くの場合、当人も周囲も気付かぬままにその恩恵を受けます。霊学ではこれを「幽の神懸かり」と呼び、知らぬ間に正しい判断したり、思わぬほど物事が上手く行った時には、この作用に近いことが起こっているようです。

そして、それは個人レベルのことに止まりません。日本文化では古くより、この世の正しい発展には無私無欲、一視同仁の神心でなければならないとされてきました。それゆえ、為政者やリーダーなど人の上に立つ者には、仁徳が求められ公に準ずる無私な精神が必要とされてきました。私心を祓った清浄な心を一人でも多くの人々が獲得することで、よりよい社会が実現されます。

いわゆる「天孫降臨」に際して、天孫邇邇芸命は天照大御神から、祭祀と食料の絶えない、永遠に発展し続ける国をつくることを神勅としてお授かりになりました。その意志を継いで居られるのが天皇陛下であり、そのメンタリティはまさに先述の理想的な霊性の在り方のお手本なのです。

当宮では、皆様に日々自ら行って戴ける「禊ぎ」の方法として、「家庭百日行」を推進しております。実は、「おかげばなし」の内容の殆どは、百日行満行者の体験談です。ご興味のある方はお問い合わせ下さい。

最後に、心身の禊ぎを日々続けることが神への真を捧げることとなります。霊学では神への真を捧げ浄心することが「神霊に出会う唯一無二の法」とされており、神と密接になり神と真の意味で「出会う」という古神道の本質に接続していくのです。

(神と繋がるということ=随神)