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神と人のあり方   9  《修行》

 ○ 修行とて 己がなすには 非ざるぞ
    神の慈悲より 出でし計らい
 ○ 己がなす 修行などとは 思ふなよ
    あヽ有難き 神の計らい

 もろくて弱い、其れでいて自我心・自尊心ばかりが強く、我が侭で角ばかりを持った己れの心を、円くて柔軟な清らかな水晶玉のように磨き上げるためには、どんな人でも沢山の心の角を取らなければならない。その心の角一つを取るだけでも、人によっては死ぬほどの辛い思いをするものである。それほど他人のアラはよく見えるが、自分の欠点はなかなか認めがたく、且つ直しがたい。人の心の中を覗いて見ると、「素直さ」を忘れて、誰もが傲慢の極みにあり、まるで世界を支配している王様か王女様のようである。そういう人が、一つ一つ自分のみっともない心の角を磨り潰し、円く円く磨き上げるためには「荒い砥石」という物が要る。その「砥石」には、夫婦にあっては夫と妻お互い同士が、親と子が、兄弟同士が、嫁と舅姑とが、友人同士で、あるいは隣近所の人と、また職場で先輩や同僚、競争相手など等…と沢山あって、自分の欠点を指摘し、磨り減らしてくれる憎たらしい砥石には事欠かない。出来ることならば他人様とではなくて、家族間で磨き合い、少しでも早く円く素直な心に成らせてもらうことがその人の身の為であり、恥をかかず、辛い苦しい思いも少なくて済む。

 ○ 只円く まるくまるくと 歩くなり
    円く歩くが 神の道なり

 こう考えると、私たちにとって日常が修行でないものはない。まさに誰にとっても「人生は修業道場」なのである。誰であっても、己が日々の心の持ち方が「永遠の運命」を定めているのである。
何でも「修行」というものは、本格的にやろうとすると、それなりの覚悟も要るし、厳しさが付き纏う。
「挫折なき成功に心の底からの喜びも魂の成長もない」とはよく言われることである。
 昔から「艱難、汝を玉にす」とか、「珠磨かざれば光なし」と言われるように、艱難辛苦あってこそ、はじめて人は、その持つ本来の真価を発揮し得るようになるものであるから、どんなことがあっても苦難に負けたりしないで、勇気を奮ってこれに打ち勝たねばならない。人生は、ともすれば弱気の虫に誘われてくじけそうになる「ひ弱い自分との戦いである…」とも言えるであろう。
 霊学中興の祖「本田親徳」翁がその著『神傅秘書』に、

 幽斎の法は至尊至貴、その精神万難に撓まず自から彊めて止まざれば遂に能く其の妙境に達することを得ん

と霊学の允可を受ける者に伝えているように、〈幽冥に通ずるの道、唯専修にあり〉であって、中途で棒折れするようであっては「行」は完成しないばかりか、修行者の恥ともなるのである。要は〈幽山貫徹せずんば止まず〉の覚悟をもって日々専修し、一歩一歩倦まず弛まず積み重ねていくより他になく、何事にも熱意と真心、強固な信念と努力というものが必要とされるのだ、と本田翁は教えているのである。霊学修行の厳しさはここで改めて言うまでもないことであろう。

 ○ この世にて 氏子が修行 するもとは
    神があたへし 身体なりけり

 さて、修行というものは、まず「心直しの行」が大切であるということを述べてきた。そして、その心(たましひ)を磨くために、神様から肉体という衣を賜っているのであるから、この衣無しには、此の世での霊魂磨きの修行は為し難いのであり、従って己が身体も大切に使わせて頂く心掛けが必要であるということになってくる。何時かは必ずお返ししなければならないこの体であるから、私たちは出来得る限り大切に使わせて頂き、且つ傷付けず汚さずに綺麗なままでお返しさせて頂きたいものである。

○ 此の世にて 肉の衣を つけること
    修行早やむる 神のお慈悲ぞ

  この体は 神の光りを 収めあり
   夢そまつには 扱ふなかれ   (一八〇)
  身魂らが 造るものとは 思ふなよ
   神のみわざの 此の身体なり  (一八三)

 以上、「修行」というものに関して概観して来たが、以下は、修行中の牟田耕蔵氏に神霊が与えられた神の道の修行についての御神歌を抜粋して挙げておくので、神仏の修行を志す方はどうか参考とされたい。

  世と人を 助けむ道に いそしめよ
   短いこの世じゃ 只それのみぞ (二四一)

  草木だに 眠ると云へる うしみつの
   時こそ神の 息吹き身に入る  (二七六)

 ○ 神を信じ 頼る氏子は 多けれど 
    神によらるる 者は少なし

 ○ 明らかに 見る姿こそ いつわりじゃ
    見えぬ姿の 真実を知れ

 ○ 断食も 要らぬぞ瀧も 無用なり
    食細くして 神の座につけ