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Ⅰ. と鎮魂法

人間というもの、例えどんなに胆力あり、学識あり、決断力あり、実行力あり、統率力ありといえども、神意を解せず、「無私の精神」「無私の心」なくば、それらが為すものは畢竟(ひっきょう)、自我の為のものにして公のものにあらず、何ら価値なきものとなる。ましてやそれらが為すことが果して神慮に基づくものか否かということは甚だ疑問であり、一歩道をあやまてば大罪を犯すことにもなることは此処に改めて申すまでもなかろう。

真に此の国の行く末を憂(うれ)う時、「公の為には我を捨てて、恬(てん)として顧みない」といった吉田松陰先生のごとき、止(や)むにやまれぬ大和魂を持った高潔な人物が必要である。徹底して無私の心に成り切り、己が一生を捧げ切るといった、そうした無私の精神が無ければ、いかにその者に知識や才能があろうと、判断力や決断力、実行力、統率力があろうとも、それらはただ単にこけおどしにすぎず、此の世を穢(けが)しに穢し、生態系を破壊し、多くの種(しゅ)を絶滅させて、生命(いのち)の根付く他にかけがえのない此の母なる地球を滅亡の淵(ふち)に追いやるところのものとなるにすぎない。日本人として、人としての、その真に進むべき方向をまったく誤ってしまうからである。

その一事例を挙げれば、一昨年に起きた未曾有の福島原発事故や所謂(いわゆる)「原子力村」の者たちの動きに如実に見ることが出来よう。世界で起こる地震発生源のその二割までもがこの日本であると言われるが、幾つものプレート上に存する地震列島のこの日本列島になんと五四基もの原子力発電所を設け、しかもよりにもよって活断層の真上に建てるなどといった愚行を平気で為すに到るのも、ただただ目先の利に走った俗物たちの為せる業なのであり、これまったく国策の誤りというべきであって、神をも畏れぬ所業である。

苦しみ喘(あえ)ぐ国民のことは全くそっちのけで、己が一家一門の繁栄や党利党略の事ばかりを考え、平気で世の人を欺(あざむ)くような、こうした奸佞(かんねい)な、骨の髄まで腐り切った者たちに人としての真の使命を果たし国家の大業を為すことはできない。我が国は今、まさに国家存亡の危機に立ち至っているのである。だから人は世俗化する前に少しでも早く學中の學たる霊学を学ぶ必要があるのだ。

無私の精神とは、生まれながらに天より賦与(ふよ)されたところの一霊四魂そのものに成りきるということである。しかしながら、悲しい事に生まれながらに各自の力徳に応じて授かったその一霊四魂には各々異なるものがあり、しかもそれには親・先祖よりの罪穢れと申そうか、「魄(はく)」というものが附着し尾を引いている。その為、この受け継いだ魄に煩(わずら)わされて、人間本来の在り方を自覚し、報本(ほうほん)反始(はんし)の精神に基づきムスビの大神の御経綸に基づく生成化育の御神業に純粋に参与するということは難しいものである。故に私たちが若い時にいつも心しなければならないことは、いかにしてこの魄を浄化し打ち消して、「神授の一霊四魂」そのものに成りきるかということであり、心を清め真心を磨き固めることに意を用いねばならない。要すれば、私たちは人間生存の意義を真に知らずしては霊止(ひと)たるの本来の責務を果たすという事はなかなか至難であるということに他ならない。

人は誰でもこの魄があるが故に業・因縁に振り回されて墺悩(おうのう)し嘆(なげ)き苦しむものである。先にも述べたが、私たちには生まれ乍らに神授の一霊四魂があると同時に、親・先祖から継承した魄というものが附着している。先祖からの穢れを子孫が受けるのは致し方もないことであるが、この魄あるが故に、悪血のめぐりあるが故に苦しみあえぎ奔走するのであり、罪の贖(あがな)いの為に病み、また不祥事に見舞われるのである。

だから自分の本当の道を探し求め、それを真に生きようと思うならば、肉体のみに着目した生き方ではなくて己が本体である霊魂に目を付けた生き方をしなければ正しく「神意」「天意」に添うた、己を全うする生き方は至難なのである。

「たとえ我が身がどうなろうとも」という徹底した覚悟と、己が全てを捧げ尽すという強固な意志、無私の心が無い者には、人間の真実も分からないし、本当の事はできないということになる。

本田翁が確立した鎮魂法(みたましづめののり)は、神霊と直接して生まれながらの己が純一無雑な一霊四魂そのものに立ち返り、徹底して無私の心になって神意を受け、真に霊止(ひと)としての人生を全うするための尊貴な法なのであり、それゆえに「真心(まごころ)を練る法」であるともいうことが出来る。「霊学は浄心をもって基となす」といわれるのはこの意味である。

ところが巷(ちまた)に一般になされているさまざまな行法というものは、何らかの通力を得たいとか、不思議や奇跡を期待してのものが多く、その殆どすべてが自己の為のものであり、大義の為のものではない。それは私(わたくし)の為にしているのであり、公(おおやけ)の為のものではないのである。それらは実に神(しん)異者(いしゃ)と言うべきであり、従って、結果として祓い清めんと欲して逆に神授の霊魂を穢し、必ずや妖魅界(ようみかい)(邪神界)の餌食(えじき)になるのがおちである。

本田霊学に説く鎮魂法は記紀(きき)等の古典に基づく「宇宙の大法」なのであり、「法(のり)」というからには誰にでも出来るものではあるが、これは大義のため国家のために行われるべき神法であり、故に本来は天御中主神より伊邪那岐大神へ、そしてまた天照大御神、天孫邇々芸命、歴代天皇へと受け継がれて来た中心力を引き継ぐ天皇家においてなされるべき神法であるというべきである。

人は誰でも「道の為には己が身を顧みず」と言うようにならねばならない。道を全うするためには鉄の塊(かたまり)を磨いて一本の針にするごとき強固な信念と意志、それにかける燃える火のような情熱、萬難に弛まぬ専心努力、それに長い時間が必要である。

このように、道を全うするためには耐えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、徹底した神界への奉仕者になり切るという強固な信念と情熱、覚悟が無ければ、本当のことは決して為し難いものである。