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七、家族(夫婦)の絆  (イ)親孝行

自分が今生きてあるのは一体誰の御蔭か、ということをつらつら考えてみるに、それはまず第一に己れを此の世に生み出してくれた生命の元である父親・母親の御蔭であるということが分かるであろう。まさに親さまは己れの生きた神さま・先祖さまというわけである。

○ 神の道 外にはなきぞ 父母の
恵みを知れば それが道なり  (一六〇二)

○ 海山の 深さ高さも 及ばぬは
吾が父母の 恵みなりけり   (一六〇〇)

人は皆、生まれ方は様々である。私の知人に、彼が幼い時に何らかの理由で両親が離婚し、その直後に父親に捨てられたという人がいる。詳しくは他に養子に出されたのではあるが…。吾が子を何処かに養子に出されたことを後で知らされた彼の生みの母親は、スッカリ悲観して農薬で自殺してしまった。そして、あろうことか養子にだされた先の養父までも、後に借金苦で首を吊って自殺してしまった。当時、彼の育った地域はあまり良い環境とは言えず、友達の中にはやくざ者になった者も多いと聞くが、彼はどんなに苦しくともやくざな世界には入らなかった。永い間、彼は「俺は親に捨てられたんだ」と親を恨んでいた。ある時、「苦境から少しでも早く逃れるには、例え嫌でも自分の親・先祖の慰霊・供養をして、落ちて苦しむ霊魂を救いなさい」と諭したが、それは彼にとってどうしても承服し難いことであった。それも無理からぬことであろう。如何なる理由があるにしても、「自分は親に捨てられたのだ」という深い悲しみは癒し難い…。

しかし一方で、彼は貧しさのどん底に居ながらも「神の実在すること」を心から固く信じている男なのである。「神霊の実在を心底信じ得る」ということ、これは何物にも替えがたい彼の宝である。これは誰にも真似の出来ないことである。というのも、それまでの彼の半生で「神の存在」無しには到底考えられないような数々の救いに浴していたからである。
だから、彼はどんなに苦しくとも死んだら神さまに「意気地なし」と叱られるだけだから、これまで死にたくても死ねなかったのだ。彼には死んだらどうなるかということが痛いほどよく分かっているのである。親・先祖からの重い罪穢れを祓い清め、めぐりを軽減・解消するには、あらゆる苦難・試練を強いられるが、それを耐え抜かなければ運命の好転は望み得ないのである。彼にとってはまさに此の世は身魂磨きの修業道場そのものであった。

その後、しぶしぶ始めた親・先祖の供養にも段々身が入ってきたが、目下貧困という厳しい「めぐり取り」の修行の最中にあり、日々の生活苦に耐えながらもどうにかしぶとく生きている。この「行」を乗り越えたら彼は人間としてより一層大きく成長することであろうし、どうか如何なる苦しみにも負けないで自力でこの苦境を耐え、立派に乗り越えて欲しいと願っている。

例えあなたが片親で育ったとしても、産みの両親を全く知らぬとしても、一個の受精卵は精子と卵子の結合なしには誕生し得ないのであるから、これを親に、そして自分の珠玉ともいうべき、またとない美しい霊魂を授けてくださった神に深く感謝せねばならないであろう。度々述べてきたように、この身に宿る吾が霊魂(一霊四魂)こそ生まれ乍らに神から授かった自分だけのものであり、一点の曇りなき玲瓏水月の如く光輝く此の世の宝なのである。そして、例え両親が居なくとも、例え天涯孤独の身であっても、一人でも強く美しく生きてゆくようにと、本当の「幸せ」というものが一体何であるかを人一倍わかるように、人の苦しみを深く思いやれるようにと、また、誰よりもやさしくあるようにと、あなたは他人以上に人一倍力量ある、強くて美しいたましひを頂いているのである。それを自分らしく立派に輝かしめなくてなんとしよう。私たちはどんな運命にも決して負けてはならないのである。

見えざる神佛はもとより、自分を愛してくれる者があるからこそ、人は生きて行けるのであるし、又、こうやって生きているのである。恨みや憎しみからは何にも生まれては来ない。一切を、私たちを生かしめている大いなる生命(神)に任せて、自らの心(霊魂)を決して傷付け汚してはならないのである。