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神と人のあり方  21(その1)

「まことの神の道」というものは、どこかの団体や集団が組織ぐるみで広めていくといったやり方ではなく、一人から一人へと伝えていくことが道にも叶い、まごころが通るものである。

氏子等よ 神がたのむぞ わが道を
一人一人と 伝へてたもれ

また、まことの神の使い人というのは、世の中のためにお役に立つためには最初から己れの一切を神に預け任せて、「自分を捨ててかかる」ということが大切である。情に振り回されたり、自分や家族のことに関わって己が信念が揺らぐようでは、とても人助けどころではなく、神の道を踏み誤る恐れがあるからである。如何に多くの肉親や家族が居ようとも、「自分はこの世にただひとり」との固い信念と覚悟を持っていなければ、到底真の修行にはならぬものである。

世のために 己れを捨てて かゝる人
これがまことの 神の使ひじゃ

限りなき 神の情けを 知るものは
千萬人の 中の一人ぞ

神がこの世に出て働かれる時は、神との深い縁を持つ御子を探し出し、その御子をまず使い易く鍛え直してから、いよいよ活動開始され、その御子を通して力(神カ)を発揮されるものである。従って修行を立派になし遂げた暁には、並みの者には出来ぬ神力や神業をも与えられるのは当然のことであろう。

世の人が なし得ぬ業を 与ふるも
神が頼みし 者なればこそ

頼まれて 夢おろそかに 考えな
神の恩寵 身にしあまれば
修行終へて 神に近づく あるじをば
諸手をのべて 神が受けとる

天拝の 峯の神々 祈れかし
あるじのえにし いと深ければ

修行終へて 神の座につく あるじをば
神待ちうける 人待ちうける

あるじこそ 濁らぬ教へ 伝へゆく
ものとなりくれ 吾が願ひなり

神は待つ あるじに力を 與へなむ
主肋けよ 四方の人等を

 

世間では説く教えというものは、そのほとんどが浅はかな人知の混入した、あまりにも人間臭い濁り多き教えであり、真の教えというには程遠い。純粋に真実の神の道を説くためには、今日でも多く見られるような、何ら命懸けの捨て身の「行」も為さずして、神仏を鰹節にしてそれで生計を立てるといった、「おんぶに抱っこ」式の単に観光化した神社や寺院では不可能である。

神の道の取り次ぎというものは、シッカリと己れや家族の生活の資を確保してこそなすべきである。世間の垢にまみれ、我欲のためにスッカリ堕落した愚かな聖職者等に、人は一体何を教えてもらうことがあるというのか。

寄り集まりでは、人助けの相談どころか、信者が一体幾らお包みしたかとか、「人集め」や「金勘定」ばかりしている者等から、一体何の得るところがあるというのか。

次の御神歌をシッカリと味わって欲しいものである。

吾が子より 貢ぎうけぬが 親の気じゃ
神の心も 亦この通り

現世の 富をば捨てよ 名を捨てよ
只一人子の 氏子にかえよ

うつし世の 情け心を とりすてて
神の情けの 真心を知れ

神ごとは 氏子そのまヽ受けとれよ
神に二言は なきものと知れ

み教へを そのまヽ聞くが しあはせぞ
凡夫の智恵で あげつらふなよ

人は何処の大学を受けたらいいかとか、どうすれば自分は損せずに沢山儲かるかとか、誰と付き合ったら一番自分の利になるかとか、浅ましくも自分や一家一門のことばかりを知りたがり、目先の欲望・欲求ばかりを求めてあくせくし、そのために神仏を利用して「伺いごと」ばかりをしたがるものである。こういう輩にはいつまでたっても、まことの神の教えなど到底縁無きことである。

さしずをば 仰ぐことをも なからめや
神に任せし 氏子なりせば

浦安は もの聴く神に 非ざるぞ
氏子氏子に 教へ布く神