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神と人のあり方 14

 一、 真の霊能力

 静かなる この神の座へ 聞こゆなり
          神のみ声 虫の声 声  (1516)
 (『神の声を聴くとはいうことは異様な声を聞くのではないぞ。あの声が神の声ぢゃ』)
 

 吾が姿 吾が言葉をば 見聴く者
       心の清き まことの者ぞ (1492)

 心澄み 澄みきるものが 吾が姿 
       明らかに見む  幸せの人(1493)

 初秋の 朝のしじまに 鳴く虫は
      幾世変わらぬ 神のことほぎ(1515)

 霊学中興の祖といわれる事玉別命(本田親徳翁)は、その著『道之大原』に、
大精神なる者は無声に聴き、無形に視る。故に既往を知り、未然に察す。大精神は此の至霊を以て神子に賚ふ。神子尊奉してついに至徳を成す。これ治心の本にして修身の要なり。

と記しているが、まさに皇法・霊学(鎮魂・帰神術)ともに卓絶した学と術を兼ね備え、自由に神界に出入し、且つ神霊に深く通じた、他の追随を許さぬ本田翁ならではの実地体験に基づいた堂々たる言ではある。本田霊学「鎮魂法」は宇宙の大法とも言うべきもので、神界に入る唯一の法である。鎮魂の極意は「覚り」にあり、その覚りとは「無」(霊肉分離による)である。「無」なるが故に「無形に見、無声に聞く」ことも可能となってくるのである。私が神から授かった「一霊四魂は無尽のもの」であると知るべきである。この本田翁の「無声に聴き、無形に視る」という教えに類似の言葉を非常に大切にした御仁が居た。「凝視無形 聴無声」(形無きを凝視し、声無きを聴く)これはかの「荻野式」で著名な世界的医学者「荻野久作」博士が氏の晩年の座右の銘とした言葉である。
 さて、世間ではこの普段見得ない筈の霊の姿を見たり、または聞こえない筈の霊の声を聞くものがいて、毎年夏などになるとそうしたつまらぬ者を「霊能者」(零能者?)とか「陰陽師」とか「超能力者」などとおだてあげ担ぎ出してテレビなどの番組で視聴率稼ぎのために取り上げているが、その害たるや、またその罪たるや甚大なものがあると思うのである。視聴者は誰も彼も正しい霊的知識など持ち合わせた者は居ないからである。
 又、己が「心の浄化」や「身魂の癖直し」を忘れ、薬物や光・音響等で脳を剌激して変性意識状態を作り出し、何等かの不思議体験を得ようとする向きもあるが、これはただ単に脳が作り出す観念の産物にすぎないのであるから、こうしたものを真実と思い込んでダマされてはならない。
 テレビであれ、ラジオであれ、はたまたタクシー無線であれ、例えば○○キロメガヘルツなどと言うように、それらには各々定められた一定の周波数があって、送信者側の発信電波をこちらが正しく受信するには、それに受信機がピタリと同調しなければ画像も音波も捉えられない事は誰しも周知の通りのことである。海や山に出掛けた時に、持参したラジオのダイヤルを指で回す際にほんの少し前後に狂っても正しく放送局の周波数を捉えられず、ザーザーガーピーと雑音だけが聞こえるということは誰にも体験があるに違いない。
 これと同じで、余程日中の激務で身体が極度にクタクタに倒れ込むほど疲労している時とか、何日も食べ物を摂取していないために体力の限界にあるとか、病気で入院中であるとか、手術の最中にとか、或いはその日に限って餓鬼の霊や亡者の居る山・海、墓場などに行った…とか、そういう時でもない限りは、私たちは普段低い波長のつまらぬ霊物や魄霊(幽霊)などとは、そうそう簡単に「同調する(つまりそれらが見えたり、聞こえたり、憑かれたりする)」などということは決してないのである。逆に言えば、そういう時には自己の波長が乱れて同調し易くなるということである。
 であるから、それを生活の資にしている人でもない限り、普段一般に見えざるものが見える等という事は決してほめられたことではなく、何の益もなく、むしろ忌まわしい避けるべきことなのであるということをどうか知って頂きたい。
 「あそこに幽霊が立っている」とか、「あそこに未成仏霊がいる」等と言う輩は、その人の外見はどうであれ、その内面は、そういった極く低級な地を這う霊物と波長がピッタリと合う程度の、直霊の働きの弱い入、或いは心汚れた人間ということになるのである。ご理解頂けたであろうか。つまらぬ者に己が心身を汚されぬように、くれぐれも注意していただきたいものである(正法に不思議なく、いたずらに奇を好むなかれ)。

 寄り来る 低き霊魂を 見る者は
        心濁れる 不幸せの人(1494)

 ひとつ宗教でも起して大金儲けしてやろうと野心を起して、宗教団体や組織を作ったり、あるいは宗教や霊や易などのことを何も知らぬ純真な人々をだまして生活の資を得んと企む不埓な輩がこの世には実に多いのである。それらはすべて妖魅・邪霊に侵されている者等であるから、決して近付いてはならない。心境の低い、穢れた心の者らが、己が我慾で如何に何がしかを熱心に祈ろうと、それでまことの神仏に届くなどということは決してないのだと知らねばならぬ。であるから、そうした者等がまことしやかに語るその口に、だまされ迷ってはならぬのである。くれぐれもあたら尊い一生を棒に振ることの無いように十分気をつけていただきたい。
 人は「霊止」とも「霊処」とも書き表す如く、どんな人でも誰でもが一人一人生まれ乍らに己が身の内(臍下丹田・気海丹田)という肝所に、神授の霊魂を宿しており(霊魂というものは決して愚かな脳生理学者等が説く如き脳にあるのではない)、その本質は記紀に添って言うならば、天地を創造された「造化の御三神」(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神)即ち産霊大神の分霊そのものであり、従ってこの上なく尊いものなのであって、巷にある如き種々の怪しげな宗教団体や組織集団のまつる神・佛等とは較べものにならないほど、此の上なく尊いものなのである。人は誰もが「神の子」なのであり、己の尊さ・かけがえのなさを真に知るべきであり、決して妖魅・邪霊や宗教を商売にしている者等に己が神授の霊魂を穢されぬように注意を怠らず、妙な甘誘や或いは人間常識に照して明らかに逸脱したような組織集団等に深く入り込み洗脳され且つ依存するが如きことがあってはならないのである。

 読者が本書を読み、神霊の言わんとするところをよくよく理解して頂くならば、なにも貴重なお金と時間を費やして色んな団体や組織や妙な者等のもとに通わなくとも、この本書一冊あれば己れ一人でも十二分に誰にも勝る「深い真実」を覚り得られるように、書かせて頂いている筈なのである。

人如何に 己が慾にて 祈るとも
         低き霊魂の 寄り所のみ(1116)

  迷うなよ 心濁れる 仇人の
         言の葉こそは 身を破る鉾(1495)

続く