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恐れるモノは来たる(心を澄ます大切さ)

人は日常生活の中で多くの不安材料を抱えながら暮らしています。平素は特別に不安を感じることなく過ごしているのですが、一つ歯車が狂いだすと何から何まで不安に思えることがあります。それが高じてくるといわゆる心身症・神経症のようになることもあります。一般に言うところの不運続きと言われるようなことになります。

心には物事を作り出す力があるのですから、心の働きで望んだことが現実になっていこうとします。不安な思いなどの心の作用で心身に異常を来してしまうのですが、まずそのことに気付かず心の働き(想い)が進んでいきます。ある程度進むと心の影響力が強くなっていき、身体に影響を与えだしてきます。人の運不運もこの心の影響力を受けた結果ともいえます。心にいつも不安を持つと不運に見舞われやすくなります。そのことを「恐れるモノは来たる」と言っています。

その不安は具体的に何が不安になっているか解らなかったり、実際には過ぎてしまったことなのに…(過ぎ越し苦労)、まだ起きてもない先のことやら…(取り越し苦労)、その不安だけが勝手に一人歩きを始めたりします。不安が不安を呼ぶ連鎖が起きるようになり大変辛いことになります。ある意味でそれは自分の想いが自分に取り付くように感じられます。

実にこのような心の作用に大なり小なり人は影響されております。それで成功哲学と称して想いは実現するから、良い事をはじめ成功した様を思い浮かべるようにしなさいと言われています。それとは真逆の作用ですが、悪感情をため込んだ人の想念が本人より離れて、あたかも一つの人格のように動き回る様を生き霊と呼んでいます。

このような自分の心の影響を受けないようにするにはプラス思考、ポジティブシンキングなどが紹介されています。古来より日本で行われていたのは心を澄ますことで、心の囚われを離れて自ずと正常な心に成れるようにしていました。

神仏の修行や和歌を詠う敷島の道では当然心を澄ます事が主眼とされていました。江戸時代になると武士道をはじめ茶道などおよそ、道と付く芸道には心を澄ます事が加味されております。それで日本人の日常生活は、挨拶に始まるいわゆる礼儀作法、箸の上げ下ろしに至るまで心を澄ます事が求められていました。

古道(古神道)を伝承する当宮では、お祈りの作法の中で自ずと心を澄ますことになっています。それは祓い詞、大祓詞、「我が心清々しい」などの唱え言葉から、国の至宝と言われる鎮魂まで。それは日常生活の中においても、真心を練り鍛え、浄心することと伝えられています。

いつ何時、どんな問題があっても心悩ずとらわれずにいられれば良いのですが…。その平常心が大事なことは皆さん解っているのですが…。一昔までの日本人はその為に心を扱うこつを、躾や心得として身に付けていたようです。その平常心は清らかな心、晴れやかな心の元ですから教養として、一昔の日本人は立ち居振る舞いや姿形にまで心の現れを求めていきました。

生きて活かされている私ども日本人、常日頃の生活の中で心を乱し濁さず心を澄ます事を心掛け、麗しい日本の心情を生きていきましょう。