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「無私の精神」と鎮魂―霊学初(うひ)学び 2

「邪霊・妖魅」というものについて②

Ⅲ.除霊ではなく、浄霊が大切

例えば放射性物質の「除染」など決して出来るものではなく、今、政府がやっていることはといえば、それはただ単に「移染」にしか過ぎないのです。
これと同様に、病気や不幸、災難というものはこれ等は皆、親先祖から自分に至る、罪の贖(あがな)いの為なのであり、この贖いを済まさない内は、単なる除霊では例え一時的に取り除かれたかのように錯覚するような現象が起こるかもしれないが、必ず、別の形で前よりも一層強く贖いをされられることになるから、むしろ危険であるとさえ言える。

「行者の末路は哀れ」という言葉があるように、世の多くの霊能者たちは早逝するか、不遇な晩年を送るか、精神異常をきたし、邪霊たちの復讐を受けるのである。

Ⅳ.邪霊たちの常套手段

その人の慣れや油断、心の隙(すき)を狙って、邪霊たちがその人の魂を誘惑し、次から次へとつまらぬことばかりを想わせ、考えさせて、心を陰に陰にと誘う。
どうしたものか、それまで信仰していた神仏や信じていた人を疑ったり、迷い心を起こさせ、不信、猜疑心を芽生えさせ、その人を神から遠ざけよう、遠ざけようとするのである。

邪霊に目を付けられると、信仰不徹底な者はひとたまりもなく、皆、きれいにやられてしまう。

本人は自分が「邪霊にやられている」ことにさえ、まったく気付かない。そうした時はこれまで「良い」と思っていたことが「悪く」想われ、「悪い」と思うことが「良く」見えるから不思議である。

Ⅴ.『神の道』を繰り返し拝読して澄み渡る神心になるしかない。
(心を清め澄ませる「行」が如何に大切なことであるか!)
この世で起こることは皆、その種をまいた結果を刈り取っているのであり、人の身に起こることは皆、自業自得である。先祖の清めといっても、自分自身の邪気を清めもしないで、なんで先祖が清められたり、周囲の業報を浄めたり出来るでしょうか。

人は皆、自ら発した、また人間がこれまで長い間に作ってき来た、邪気邪念や妖気妖念、怨念や復讐の念など、諸々の穢れた念や言動に復讐されているのです。

心からこれまでの過ぎ越し方を神にお詫びし続け、これからは真人間になることをお誓いし、忠・孝・敬神・崇祖の道を心底実行して行く以外に許されることはない。
火や水の行、その他の行は「心を澄ます」行のほんの手助けに過ぎないということを身にしみて感じることが大切です。

Ⅵ.死の刹那(臨終)の時の一念が大切

人は誰でも、此の世を去る時には執着や未練、想いを何ら残すことなく、往くことがとても大切です。生きている内から、人間の肉体に属する物欲や金銭欲、名誉欲などといったものにあれこれ心奪われて、汚れ果てぬように、また、自分中心主義でなく、何事であっても他人(ひと)様第一に生き、神中心主義で考え行動するようでなければなりません。

『神の教え』を繰り返し拝読して、心の曇りを取り除き、神の愛というものがどんなものであるかを少しは真面目に考え、神心を修得して、生まれながらの清らかな魂と身と心にならせて戴くことです。内なる心の光が輝き出てくるようにならなければなりません。

生きている内から神仏様の道を歩ませて頂き、徳を積ませて頂いて、世のため人のために生き、道義に篤い、情の深い人間としてひと回りもふた回りも人間的に大きく成長しなければなりません。

あれこれ、此の世の事に深く囚われて、べたべた未練を残すようでは、人生の本義を正しく全うした人ではないということ。

私たちは産土大神さまやご先祖様方から「よくやってくれた!」と感謝で迎えられるような御霊にならなければいけないと思います。

人は一旦、霊籍が決まると、そこから自由に動くことは出来ません。
此の世に生きておればこそ、自由にあちこち動けるし、色んな人と出会い、学ぶことも出来ます。それらは全て此の世に生きておればこそ…の話である。

自分の心次第では、どんなに学ぶことも出来、向上も出来、人生の本義を知ることが出来ます。すべては自分次第…というわけです。

〈吾が心で吾が魂を助けるが此の世に生まれし甲斐というもの。〉