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「無私の精神」と鎮魂―霊学初(うひ)学び

「無私の精神」と鎮魂―霊学初(うひ)学び
           於 大阪府教育会館
 以下、当日の講話のごく一部を簡単に報告致します。

Ⅰ.霊学の大本は鎮魂にあり
 霊学といっても、なにやら不可思議なことや神秘的なことを学ぶのでは決してなく、人間生存の意義、また、日本人の生きる道が一体どこにあるかを真に究めようとするものであります。
 誰しも生まれながらに天より賦与された神性といいますか、人間の一霊四魂の存在を知悉し、奇霊な魂のはたらき・魂のひらめきを感じ取って、二度とはない、このかけがえのない人生を、誰もが有意義にすごさせて戴くための内容のものです。

Ⅱ. 他感法(帰神術)による神誥(しんこう)の正確無比な一事例(略す)

Ⅲ.「梵鐘(ぼんしょう)と撞木(しゅもく)」の関係について―純粋な思念力の大切さ

 鐘の音は人間の持つあらゆる煩悩を打ち消し、み仏の世界を現出して、悟りの道へと導いてやまぬもの。果して真に世界を救えるような素晴らしい、清らかな鐘の音が出せるかどうか。梵鐘と撞木はただそこに並んでぶら下がっているだけでは決して音は出るものではない。

 精魂込めて作った梵鐘の、その持つ本来の素晴らしい音を出すには、それを衝く人の心構えや衝き方、しっかりした本物の型が必要である。

Ⅳ.鎮魂法・帰神術の極意

「霊学は浄心を本と為す」・「鎮魂は真心を練る法である」などといわれるが、鎮魂法も帰神術も共に最初は強い思念力が必要とされ、これなしには完全な鎮魂法・帰神術にはならないということ。

・「吾が霊魂は鎮魂石に鎮まる」(鎮魂法)

・「吾が霊魂は天御中主大神の御許に至る」(帰神術)

つまり、「想い」は力なり…であり、その初めに純一無雑な強い思念力が必要とされることは言うまでもない。

 ところが、思念して後はそれをも突き放して、意念を断滅し、言葉で考えることを一切やめなければならない。徹底して深い統一状態に入り、無我の境地に至らなければ、その奥義には決して達し得ないものである。

此の尊貴な神術・神法はまさに時間・空間を超える法術であり、神霊と直接して、神教・神誥を賜るところの真に究極の覚りの道なのである。

Ⅴ.結びに

小休止の後、取り寄せたお弁当を皆で戴きながら、質疑応答を交えて歓談致しました。皆さま方には日頃の自分の想いを真摯に受け止めて戴き、ご清聴戴きましたことを心から御礼申し上げます。

 「邪霊・妖魅」というものについて①

Ⅰ.人が幸せになる道は必ずある!

・かくり世の さまも見せたや 氏子等よ 
 めぐりめぐれる 罪のありさま(101)

・黒雲は 悪鬼邪霊の 吐く息ぞ など州人は
 気がつかぬ のぢゃ(889)
 
 此の世には、折角人と生まれながら「人生の本義」を知らずに死んでいった多くの迷霊、地に堕ちた霊たちが、子孫からの真心込めての手厚い慰霊や供養が受けられず、その為に行くべきところへも行けずに、集まっては邪霊化・悪霊化して、世を汚濁し、黒雲のように世を覆っています。

 彼らも本当は救いを求めているのですが、その子孫や縁につながる者たちからの温かい思いやりや死者への優しいまなざしが無いために無縁さまの境界に堕ちて凶霊化している。この世にはそうした未成仏霊だけでなく、本当の妖魅・邪霊や半肉半霊の動物霊たちも実在しており、それらは普段決して姿は見せず、悪念を抱く人間や迷いの淵にある地を這(は)う霊たち(未成仏霊)、心汚れた者、自暴自棄した人間たちに近付き、それらを陰へ陰へと誘い、陰で悪の道へと引きずり込んでいます。

・業深き 霊魂の姿 なさけなや 現世の務め
 怠りしもの(882)

・迷ふたる 霊魂のために この国は
 災ひ多し とく助けたや(478)

ですから、私たちが日頃からそんな悪霊や迷霊たちと波長が合う(同調する)ような低い心境の持ち主であっては、到底幸せになれる筈はありません。どうしても心を汚さず、心身を清らかに清浄に保っておく必要があるのです。

 また、狂ったようになって子孫や親類縁者に救いを求めて念波を送って来ている、各家々の親・先祖の御霊たちを救い上げるには、まこと心の祈りより他にないのです。

 私たちの本当の幸福は、こうした救済を求めて狂人のように走り回っている未成仏霊を救済し、親先祖から自分に到る業・因縁を解消することより他にないと言えましょう。
・先祖まず 助かりて後 吾が幸は
 吾が身に来ると よく悟れかし(1543)

その為には神心に習い、心の浄化を図り、敬神・崇祖の道を真に実行し、神の子として、恥ずかしくない、澄み切った心になることしかありません。「神の教え」を紐解き、神々が私たちに一体どのようにあれと教えておられるのかということを先ず第一に知るということがとても大切なのです。

Ⅱ.己が「神授の魂」を決して汚すなかれ!

 私たちはどんな人でも、生まれながらに産霊神から尊んで余りある分霊(わけみたま)(一霊四魂)を賜っております。なんと素晴らしいことでしょうか。

 その自己の本体である霊魂を完成・成就せしめるために、肉体(魄)をお預かりしているのです。ですから、例えどんなに辛い、苦しい目に遭おうと、悲しい目に遭おうと、決してそれから逃げることなく、すべては己の霊魂の向上と確立、完成のためと思い、忍耐し、絶えず創意工夫し、努力を積み重ねていくことが大切なことなのです。

 そんなことは人に言われなくとも、誰だって自分の頭では良く分かっています。ところが人は、誰もが決して山中鹿之助のように「我に七難八苦を与えたまえ!」などといった強靭な精神を持ち合わせてはいないし、そんなに強い生き方はそうやすやすとは出来ないものです。大抵の人は、出来るだけ「苦労はしたくない」ものです。
 私たちはとても弱い生き物です。身に起こった苦難を仕方なく受け入れ、それに必死に耐えている…というのが真実でしょう。

 「苦しみから学ぶことによって、成長や進歩向上があるのだ」とは誰もが知っていても、そうやすやすとは受け入れられない。人はその苦難から出来るだけ早く逃れたい一念から、手っ取り早く知人から勧められるままに宗教団体に入ったりします。
 これは尊貴な自己の神授の魂を他に売り渡す行為に等しいのですが、思わぬ苦難に遭遇した時には、それを甘んじて受容し、乗り越えていくというのは誰だって耐え難いし、なかなか一人では苦しく辛いものです。

 だからといってその苦しみから早く逃れたいと思い、世間によくあるように妙な宗教に入ったり、よりにもよって何の力も無い、つまらぬ霊能者・陰陽師、拝みやさんなどといった者に頼ったりすると、あたら神授の霊魂を汚されるだけでなく、とんでもない目に遭いますよ…ということだけは、是非とも知っておいて欲しいものです。