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祈りと瞑想

祈りには一般にはお願い事をすることと思われがちですが、一心に祈りやがて無心になるという「忘我の祈り」が祈りの本質だとされています。

お祈りの中でお願い事やその対象者、神仏そして自分自身の区別がなくなり一つになっていきます。その時神仏を念じながら無心となっていきますので神仏の加護が有り安心してお祈りを行うことが出来ます。(無心になることは自己を明け渡すことになるので、正しい神仏の加護無しでは大変危険なことです。おかしな物に憑霊されてしまう隙を作ることになります。ある日突然、見えたり聞こえたりするようになる場合は十分注意が必要です。それは霊物から見せられ聞かされ思い込まされている状態であり、ほとんどの教祖、霊能者とされる方がこの状態です。それを避ける為に古来厳格な審神者が必要とされていました。)

瞑想は古くは観想と言われ、想いを凝らしてイメージを作ります。それをまざまざと見聞きし触った感触まで感じ取るほどになり、現実と自分が作った想念とが区別がなくなるまで自分の思いの中に埋没していきます。このイメージを作っていくことを生起次第と言います。次にその自分の作ったイメージと自分のいる現実は共に無常でありその本質は空であると断じるようにします。それを究竟次第といいこの二つがクルマの両輪で空の境地へ連れて行ってくれるとしています。この瞑想を繰り返すことで、物事にこだわらず、生きることも死ぬことも恐れず厭わず、成すべき事を行う主体的な人生を送れるようになるのでないかと思っています。これは私の個人的な主観ですが、それとこの究竟次第に関する瞑想内容は世間の瞑想に関する文章にはほとんど書かれていないことが多く、具体的に経験されている、もしくは指導できる人が居ないのではと思っています。それで瞑想はお薦めしないことにしています。

禅は止観と言って無念無想を目指します、しかし、一っ飛びにそこに行くことは至難なのことなので、公案禅といって言葉を使って思考を固定して無心に至ろうとします。公案禅は「室内」と呼ばれ師家と一対一で相対します。それは師の適切な導きがあって出来うることで一人で行うと危険を伴う恐れがあります。接心会と言って師家と泊まり込みで行う時以外の行では普通に座禅(黙唱禅)をするように指導されています。

神棚で祓い詞や大祓詞をお唱えすることや仏壇で盤若心経や観音経を唱えることは理にかない安全なことです。それに心を澄ましてお祈りされていけば良いと思います。

ただし、神棚や仏壇に正しい神仏が祀られていないこともありますから、行者、拝み屋さん、霊能者、ヒイラー、気功師、新興宗教と称する人達に関わった場合は充分気をつけないと、神棚仏壇などが穢れをうけて、禍々しいモノに取って代わられていることがあります。神仏と称して妙な霊物がご本尊となって祀られていることがありますのでご注意下さい。

また、ヨガ、気功、エクソサイズなどでも教える人や場所の霊的なモノの影響を受けますので良く吟味して下さい。