神仕え

Ⅰ.神主の心得

神主の役目は「古儀を尊重する」こととはいえ、単に儀礼形式のみを踏襲すればそれでよいというものではなく、「中取持ち」といわれる如く、人々の真心を神霊にお届けし、また神霊の御神意を正しく魂に受けて、人々に取り次ぐという重大な責務が第一にあるのである。元皇學館大學学長の谷省吾先生は、「神職は、神を呼び、神と直接し、神霊を直ちに感じ、その来格を目のあたりにし、その声を聞き、或いはその神霊のかゝりたまふ存在であることを覚悟しなければならぬ」と述べておられるが、然りというべきであろう。

地上に蔓延する一切の妖魅・邪霊の暗躍を祓い除き祓い浄めて、全国神社の御神霊の御稜威をいよいよ高め、御威光赫々と光り輝かしめ、今日の社会の危機的状況を打開せんとするためには、或いはまた、神々にご奉仕する神主がその責務を正しく全うするには、まず以て奉仕の御祭神(神界)に己れの生涯を捧げ切る覚悟が必要なことは言うまでもない。

日々厳重な潔斎をして心身の浄化を図ることは論を待たず、鎮魂の法によって真心を練り鍛え、神霊と直接して神霊の実在と神界(神々の活動する世界)の厳存することを己れのミタマにしかと確信させていただき、御神意を正確に受け得るだけの不断の弛まぬ霊魂の錬磨が必要なのではなかろうか。

Ⅱ.神霊の実在を知る

自然発生的にこの日本列島に生まれ育った神道は、山の神々や海の神々などの例に見られる如く自然を神とし、あるいは自然の中に神々を幽観し、また、その神々の御姿・御声に直接してきたのであり、大自然の神々の恵みによって生かされ、その生命力の偉大さに深く畏敬の念をはらってきたのである。

環境破壊や心の荒廃が叫ばれ、生命を軽視する風潮、人間同志の疎外感のますます強まっていく今日、これらの諸問題を解決し得る道、また世界平和をもたらす道は、まさに神道をおいて外にはないと思われる。従って、新世紀を目前にして私たち神職こそが、まず第一にこの「大自然の生命の教え」ともいうべき神道の持つ素晴らしい神道的世界観、価値観を再認識し、神の道を歩む者としての誇りと情熱を再度取り戻すべきときではないだろうか。

神霊の実在と神々が不断に御活動になる世界(神界)の厳存することをしっかりと各自がミタマに感得することが肝要であり、故にこそ神道行法としての鎮魂が神職にとっては不可欠のものとなってくるのである。

Ⅲ.清浄心

鎮魂法は浄心を最も重視するものであることはいうまでもない。神霊が喜ばれる清浄心とは、如何なる時にも人と争わぬ心、怒らない、恨まない、妬まない、嫉まない、悔やまない、悲しまない、取り越し苦労や過ぎ越し苦労をしない心、こうした澄清なスガスガしい心を言うのである。浄き、明き、正しき、直き精神・心を養う事こそ、神道行法の根幹をなすものというべきであろう。

Ⅳ.行

妄りに奇呪を唱え、異行を為すような神異者は論外として、禊ぎの行といっては氷の張った水中に飛び込んだり、わざわざ無理して寒中に海に入ったり、薮蚊の猛襲の中での行法錬成などなど、それはそれで全く意味の無いこととは決して思わないが、神道行法というものは決して「我慢競べ」であってはなるまい。

行法指導者自身、行法の目的が曖昧で、的がボケていると、何の為に「行」をしているのかさえ分からなくなってしまうものである。

例え何年「難行苦行」しようとも、「行」の目的と手段を履き違えて、ちっとも心は清まらず、己れの日頃の悪癖ひとつも直せない、などということであっては、「行」そのものが泣こうというものであり、第一、神明に対してご無礼というものである。