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神道の本質 神と直接する道

神道は「この国に自然発生的に生まれ培われてきた日本人の生き方、生活習慣そのもの」であり「国の歩み」そのものと言ってもよく、いわゆるヨーロッパ流の知性や理性で作り出した合理的宗教(人信仰)とは全く異なり、実在する神々を斎き祭っているのであり、神と直接しその神姿を拝し、神教を賜って、国のまつりごとに誤りなきを期す尊貴な道なのであります。

日本刀は和紙で拭くのがよく曇りも取れて、本来の輝きを取り戻す。

武士の魂の象徴ともいうべき日本刀は西洋紙ではなく、日本の和紙で拭くのが最も理にかない、その曇りも良く払拭されて光り輝き、日本刀本来の美しさが引立ちます。

そのように私たち日本人の精神、大和魂(やまとだましい)というものは日本の神々直伝の教えに触れ、それを神習う生き方がもっとも天地の理に叶い、本来の美しさ、うるわしさを発揮するものであると私は思っています。

   神道の本質  神と直接する道

Ⅰ.大自然は神なり

神道は「神の道」と書くように、神を抜きにしてはあり得ないこと、茲に改めて言うまでもなかろう。原始神道は神籬(ひもろぎ)・磐境(いわさか)といわれるように、大自然を神と称え、山や海、川、瀑布など自然の中に神霊の働きを感じ取り、畏敬し、祭祀のまことを捧げて来たものである。樹令数百年もの樹木には注連縄(しめなわ)を張り巡らして、これは木ではなく御神木であるとして聖別し、また、家屋を建てる時にはその土地の神に鎮め物を捧げて、丁重に地鎮祭(とこしずめのまつり)を執り行って来た。神社そのものが「鎮守の杜」といわれるように、古代の人々は心素直であり、そこにありありと神霊を幽観し、神霊の実在をひしひしと感じ取っていたのであるが、今日では「霊魂(たま)の働きに関する認識」がまったく欠如してしまい、神仕えする者が誰も神を知らず神霊と直接することが出来なくなってしまった。ただ、外観の大きさや歴史の長さ、学歴のみを誇りとする卑しい者ばかりになってしまった。

Ⅱ.清浄を尊ぶ神道

神はなによりも清浄を尊び不浄を嫌いたまうことは神道の基本常識なのであるが、祓っても祓っても祓い尽せないほどに私たちの生命の源である海や山、川、故郷の大地を放射能で汚染しまくりながら、恬として顧みることも反省悔悟することも無く、また、なんら責任を感じることも無く恥じ入ることすらもないというのは、一体どうしたことであろうか。
 「恥じる」「悔いる」「省みる」「畏れる「覚る」の五情は、誰もが生まれ乍らに本有する心の働きであるが、神道は、日本道はすでに滅んでしまったのだろうか。

Ⅲ.神道は生命(いのち)を畏敬する道
       ―繋がり合い響き合う生命

私たちの生命の根源的な特質は神を中心として皆、他と繋がり合っているということである。神道では、私たちの住まいするこの大地球は一大生命体であり、大国主大神というご神霊として尊び、畏敬し、途絶えることなく祭祀を怠らず執行して来た。

例え言語や宗教、風俗、習慣、伝統や文化が異なっても、その根底では人は皆等しく繋がり合っているのであり、故にお互いの「違い」を認め合い、理解し合い、互いに支え合い、助け合って生きて行くというのが人間本来の生き方なのではないか。お互いの違いを認め合い、理解し合うことからでしか、世界平和・世界の共存共栄の礎は築かれないと思うのである。

Ⅳ.神意を第一とする神道(神心に添う道)

記紀などの古典をひもとけば、古代に遡るほどに何事も神意を伺い、神意(神慮)を第一とし、神の御心を己が心としてまつりごとに誤り無きを期して来たことは、幾多の事例によって明らかである。今日、神道のエッセンスともいうべき、この「神意を問う」という、神仕えする者にとって最も大切な根本部分であるところの、神霊と直接し、神の教え(託宣)を受ける神術(鎮魂法(みたましずめののり)・帰神術(かむがかりのわざ))をまったく失い果ててしまい、ただ単に形式のみを踏襲するに至った。厳しい「行」を通してそれを取り戻そうとする者さえいない。神道のエッセンスを喪失したまま、まったく形骸化した、外観だけを取り繕った神道を恥ずかし気もなく、平気で國内外にまで宣伝するというのは、世界の人々に神道や日本文化の本質を見えなくするだけでなく、逆に誤らせてしまうことにもなり、大変由々しいことである。それはこの国の将来にとっても大変不幸なことと言わなければならない。とても楽観視出来ないことである。その昔、宇佐神宮では託宣(神の教え)が出なくなった女禰宜(にょねぎ)は即刻辞めさせられたという時代があったが、先祖の威徳を食い荒らし、観光地化することで満足し切った神社や、神意を問うことも無い神主に、一体何の意味があると言うのだろうか。