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(ロ)夫婦の道 むすび

夫婦の縁というものは世間でも「親子は一世、夫婦は二世」と言われるように、親子の縁や兄弟の縁とはちょっと違ったもののようであり、あの世までも続く縁だとよく言われている。

世の中には親の反対を押し切って、駆け落ちまでして一緒になった夫婦が、おりなりものの一、二年も経たぬ内に簡単に離婚してしまうなどといったこともある。また、逆縁というべきか、好き合って結婚したのにそれ以来何かと性格が合わず、こともあろうに憎しみ合いながら何十年も世間体や体裁を気にしてなのか別れることなく、一つ屋根の下でダラダラと暮らしてている仮面夫婦だっている。

かと思うと、世の中には他人事ながらじつにうらやましいほどの仲の良い、見るからにほのぼのした夫婦も居るものだが、こうした夫婦の縁を「良縁」と言うのであろう。どうもこの「良縁」というものはなかなか得難いものらしく、余程親孝行な人か、先祖以来の徳のある人であろうと思われるのだが・・・。いずれにせよ、夫婦とは此の世だけのものではなく、生まれる前から決まっているものなのだと神霊は言われるのである。

 ○ 夫婦とは 此の世に生きる ものならず
    久遠の昔に 結ばれし仲   (一九四四)

 ○ 二人とは 思ふてならぬ 一人なり
    心も一つ 身も一つなり
      (夫婦の道が大切じゃ)    (十一)

此の世は修行道場であるからには、例え仲の良い夫婦といっても、お互いにそれなりの忍耐や努力なくしては丹頂鶴のように生涯添い遂げるということはなかなかに至難である。それほどに、この人生、生きている内には乗り越えなければならない色んな出来事が多々あるものだ。

神霊は、夫婦であっても親子であっても、お互いを神と思い、「拝み合う心」が大切だと教えられるのである。

 ○ 己がつま(夫・妻) 己が子なりと
    思はずに 神仏なりと 拝む心 (一〇八四)

  夫婦とは 神のおん手で 一つなり
   よし別ある如く 目に見ゆる共  (一一三七)

「夫婦は二人で一人」といった心掛けで、それこそ丹頂鶴のように思いやり合い、いたわり合い、支え合って仲良く生きて行ければ最高であろう。ところが、生きている内にはなかなか「一つ心」と言うわけにはいかない時もでてくる。

全く性格の異なるプラスとマイナスが一点で結び合わなければ電流は流れないし、精子と卵子、男と女といった全く異なるもの同士が一つに結ばれないことには生命は誕生しない・・・というのがこの自然界の法則ではある。つまり、もともと男と女といった正反対の者同士が一緒に長い年月生活する訳だから、夫婦とはいっても仲睦まじい時ばかりではないだろう。

一生の間には、時として一度や二度の軽い喧嘩位はするかもしれない。そんな時、子供たちは自分たちの愛する父母のその有様を見てどんなに心を痛め、心配していることか。

 ○ 信心の 基は夫婦の 仲にあり
    夫婦の道は 教へのもとぞ  (一一三八)

   夫婦より 家は成り立つ 子等も亦
    夫婦ありての 子にあらざるか(一一三九)

   親二人 道をたがえて 家のもと
    開かむすべは なきものと知れ(一一四〇)

牟田耕蔵氏ご夫妻も時には夫婦喧嘩されることもあったのであろう。神霊から、夫婦二人が道をたがえてどうするかとのお叱りを頂いた御神歌である。夫婦がすべての基本であることは、ここで『古事記』神代巻の伊邪那岐・伊邪那美二神の故事を引き合いに出すまでもなかろう。

 ○ 吾が妻を 神と思ひて 拝むこと
    神の縁で 結ばれしもの    (一九四三)

神の道に関して、奥様がなかなか己れの意に添わぬところがあって、さてどうしたものかと牟田氏が思案したものであろう。あまり悩まずに神に任せておけ、しばらく時期を見よと神霊は教えられている。
  吾が妻を 吾が導くと 思はずに
    神に任せて 時を待たれよ   (一九四九)

  ○此の主 神の縁を 断たむとて
    如何にするとも 神が断たぬぞ(二〇八二)

随分と腹立たしかったものと見えて、牟田氏はついに奥様との離婚まで決意されたのであろうが、御神霊は神が結び、神が繋ぎゆく縁であるからには、これを如何に自分の力で勝手に断とうとしても断つ事は出来ぬぞと、牟田氏を厳しく戒めておられることがこの御神歌によって分かる。

 ○ 神結び 神つなぎゆく 此の縁
    断つに断たれず 己が力で  (二〇八三)

   神結ぶ 縁の糸に つながれし
    主夫婦よ 世をすてゝゆけ  (二〇八四)

   妻の心 即ち主の 心なり 
    夢心して 心乱すな      (二一三七)

 ○ 妻も子も 主も共に 一つなり
    一つ家内は 一つの身体   (二一三八)

神霊は、此の世の一切を捨てて神の道に励んで欲しいと牟田御夫婦に願っておられる。如何にそれが「人が生きたまま神になる」という尊い道、誰でも望んで叶う事ではない「千萬人に一人」という神から選ばれた者のこの上なき尊い道であっても、御夫婦にとっては「もとの普通の生活に戻りたい」との思いもたまには起こされたに違いないし、それを咎めるのもありに可愛そうではある。

しかし、それが「修行」というものである。牟田氏ご夫妻が本気で励んでくださらなければ、多くの悩み苦しむ氏子や、それ以上に嘆き悲しんで救いを求めている無数の霊魂たちを一体どうするというのか。大神さま方のお嘆きもまたひとしおのものがあるのである。

  夫婦とは 宝生み出す 大本ぞ
   神の生命を 生くるものなり  (二一三九)

 ○ 汚すなよ 神の生命を 汚すなよ
    夫婦の道を 心して行け   (二一四〇)

牟田夫妻の「夫婦の道」如何が、こうした悩み苦しめる多くの人々や無数の落ちた霊魂を救済するしないを決定するという、まことに大切な神業を左右することにもなりかねない。夫婦が私情を挟んでここで間違えば、神霊の御心にも背き、その結果大きな業を造ってしまうことにもなる訳であるから。

 ○ 世の中の 業の元なり 神業の
    生きるもとなり 夫婦の道は  (二一四一)

   主・妻 心に隙が あるならば
    神業もなし 世の業もなし  (二一四二)
 
   神業を 立つる基は 主・妻
    二人の仲の 喜びにあり   (二一四三)

   ○ 神の座も み仏の座も 汚れなむ
      夫婦の中に 汚れあるとき(二一四四)

又となき尊い神縁を有し、「千萬人の中の一人ともなれ」との神命を賜った牟田夫妻の修行の日々がどんなものであったかが、著者には手に取るように見えてくる。神の道においても、人の道においても如何に「夫婦の道」というものが基本であり、大切な縁であることか。

 ○ 心せよ 夫婦の道を 常日頃
    あやまちなきかと よく心せよ (二一四五)

※ 『やまもも』二十一号、平成十六年三月号より五十回の連載を重ねて『古神道の秘儀』の主要部分を掲載できました。渡辺勝義先生と出会って早くも二十二年目、昨年ご逝去なさってより霊學の師をなくした寂寥感は日毎に増すばかりです。

渡辺先生にこの文章の掲載のお願いしたときのことを鮮明に思い出します。「本当の著者は私ではなく神様です、道の為にあなたが使われるならすべて自由に使って下さい」
またある時は書きためた論文を渡されるとき「命を削って書きました、私の遺言と思って受け取って下さい」

次回からは出版されてない原稿から掲載させて頂きます。「神と直接し」「命を削って書かれた文章」の行間をお読み頂き、そこにある神韻をお受け頂きたく思っております。