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(ホ)肉欲について

私たちは視覚や聴覚、臭覚等といった五官を通してやってくる外界のさまざまな情報や刺激に晒され続け、それに絶えず反応しその影響を受けているのであるが、それは恰も波間に揺れる木の葉のように常に翻弄されっぱなしの状態にある。

例えば町を歩いていても、美味しい蒲焼の臭いが店内から流れ出てきて人々の臭覚を刺激すると、丁度御腹のすいた人はそれに直ちに反応し、肉体ごと引き寄せられてそのお店に入っていくように…。またある人は夜のネオンサインが灯り、それが己れの視覚像に捉えられると、訳もなくまるでパブロフの犬のように夜のネオン街に身体ごと吸い寄せられていく…。

このように人は皆、己れの肉体の感覚器官(人間心)の奴隷となって、五体を自由に使役され翻弄されており、肝心の自己の本体たる神授の霊魂(神我)はいつまでも目覚めることなく深い海の底に沈んだままである。この肉体は本来従のものであり、主である自己の霊魂の完成・成就の修行を早めるために神から授かり預けられているものであった。ところが本体であるところの真我(本当の自分)がいつまでも霊的に目覚めず、己れの正しい使命を自覚しないために、本体からの指令を受けられないままに肉体はその本来の活動を阻害され、結局野放しにされた儘の状態であるとも言える。知らぬこととはいえ、これは実に勿体ないことではある。一体いつになったらご主人様はお目覚めになられるのであろうか。

誰も彼もが悪魔の三S政策(スポーツ・セックス・スクリーン)の罠にはまり、肝心の「魂の行方」についてはこれまで真剣に考え且つ求めたことさえなく、野球ボールやサッカーボール、ゴルフボール、パチンコ玉など、或いは上玉(花柳界では美人のことを指す)を…と、魂ならぬ「玉」(球)の行方を必死に追い掛け回しているのであり、そしてそれは決して止むことがない。御神霊はそれらの肉体的・肉感的楽しみは、繰り返し繰り返し水面にぷくぷくと浮かび上がってはぷつんとはかなく消えていく泡と同じようなものだと牟田氏に教えておられる。

○目と耳と 口やその他の 楽しみは
水の面に立つ 泡と同じぞ (八六〇)
○泡は立つ 立つと見ゆれば 直ぐ消ゆる
それと同じぢゃ 肉のたのしみ (八六一)

私たちはいつになったら本来の面目たる真我を磨き上げ、光り輝かしめるべく、人間本来の道を求める心が起きるのであろうか。人として此の世に生まれ出てきた本来の目的を忘れて、その外の事に夢中になっているようでは、それこそ本来の「面目丸潰れ」ではないだろうか。

消えて去る 水泡の事は 先ずすてゝ
流れ絶えせぬ み教へを聴け (八六二)

哀れとも言うべきは、いずれはかなく消えてゆく此の世限りの宝を、人々はまるで餓鬼か亡者の如くに他人よりも少しでも多く掻き集めようと競争し合い、それこそ必死に追い求め続けて飽く事がない…ということである。これが、現実に誰もが日々目前にする、偽らざる赤裸々な人間の姿である。

むなしいと言えばこれほどむなしいことはあるまい。まさに「「仮の世に仮の業する此の身」(五)ではある。

○目に見ゆる 肉の衣や 物はみな
何れはかなく 消ゆるものなり (一五九五)

誰にとっても二度とは無い、尊い掛け替えの無い人生、まるで此の世の如何なる宝石にも劣らぬところの、惜しんで余りある「生命の日々」「生命の時間」である。

どなたもどうかこの世を御暇申し上げる時に際して、決して悔やむことのないように、死んでも死なない自分(生き通しの霊魂)がいることに気付いて大慌てしないように、逝った後で自分は何処に行ったらいいのか?などと迷わないようにして欲しい。死んだ後までも未成佛霊・迷霊となって家族や社会に迷惑をかけ、害毒を流すことのないように、平素シッカリと己が心を定めて、与えられたこの生命の日々を大切に送って戴きたいものと切実に願うものである。

○やがて散る はかなき物を 今捨てよ
永久に生き行く 心定めよ (一五九六)