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(ハ)疑いと慢心

疑ひと 云ふ言の葉を とりすてよ 神の教へに もとることなり (一七九)

信心とは「信じる心」と書き、信仰とは「信じ仰ぐ」と書く。信仰心とは文字通り「信じ仰ぐ心」をいうのである。これらの言葉にはいずれも「信」という文字が入っている。ところが、この「信じる」「信じきる」ということの難しさ、実はこの「信」の一文字こそが人の運命を分けるのである。

疑ひは 罪と汚れの もととなる 疑ひ心 今とりすてよ (一七四)

疑ひは うつし世人の 業なるぞ 神のみ国に 疑ひはなし (九三四)

疑ひも この世の中の ならはしぞ 神の世界に なきことどもぞ (一七三)

神習へ 如何なる事も 疑ふな 現世を円く 渡るもといぞ (九三五)

疑ひと 悲しむ心 取り捨てよ みかげの袋 破る穂先ぢゃ (一三四八)
神仏を信仰していながら、いざ自分の身や一家に思わぬ不幸事でも起きると、途端に神も佛もないものとばかりに信仰を捨ててしまう者もいる。

そうして「あちらの神さんがよく見る、霊験あらたかだ」と聞けばそちらに、「あそこの佛さまが何でもよく聞いてくださる」と聴けばそちらへ・・・といった具合にあちこち動き回って、こともあろうに神仏を捨てたり拾ったりしている罰当たり者がどこにでも居るものだ。これを私は「名所・旧跡巡り」と呼んでいる。いつまでも心底神佛というもの、信心というものが分からない人、神仏を己れの欲望充足のためにばかり利用し取引している者のことである。こうした物の道理が全然分からない人は、少しでも自分の思い通りにならないことがあると、例え神でも佛でも何でも直ぐに捨ててしまうものである。

一体神仏が偉いのか、人間のほうか偉いのか。そういった人間であっても、また如何に疑われ、裏切られようとも、神佛は「何も分からぬ可哀想な者よ」「哀れな者よ」「浅はかな者よ」と一切を見直し聞き直し、霓大な御心でそれ等の罪を許し、哀れみ給うておられるのであるから、まことに申し訳ないといったらない。

つぎの御神歌は、牟田氏が自分のところに集まる氏子(信仰者)のことを何かの理由で疑われたのであろう。神霊は牟田氏に氏子を疑ってはならぬぞと、それは「神の御心にそぐわぬことであるぞ」と厳しく戒めておられるのである。

吾が氏子 氏子を疑ふ ことなかれ 神の亀鑑に かなはぬことぞ (一七八)

疑ひは 神の救ひを さえぎらむ 氏子迷ふな 神の願いぞ (一四〇七)

神々は 目には見えぬも 疑ふな 目に見えぬこそ 有難きもの (一五九四)

神に対して何か疑わしいような心が生じたら、これは「魔に入られたのだな」と察知して、直ちに神にお詫びし、祓い浄めて頂くことが大切である。

神仏に対して疑いを持つと、それが昂じるとしまいには「迷いに迷う」ことになる。こうなると人間、如何なる信仰をしようとも「迷えば地獄」と知っておかれたい。

いつも生きている時に我欲や疑心、迷妄の鬼に苛まれて、己が心の中に天国を造り得なかった者が、死後に天国や極楽などに安住するなどといったことは断じてないものである。霊界とは人間の常々抱く心(魄) の世界のことなのだから・・・

疑ひは 迷ひのもとぞ 心して 神に念じて とり去りてゆけ (一七三六)

迷ひこそ げに恐ろしき ものなるぞ 救ひ断ち切る 身の不浄なり (一四〇八)

世の中には善人も居れば悪人も居るものだ。 一人の人間を巡って、天使と悪がいつも闘っていると思えばよいだろう。最も悪質なのは、人間の真実を何一つ知らぬ、「人の不幸は鬢の味」などと言わんばかりの 「吾れ良し」の固まりのような者等がある意図をもって人に近づき、出鱈目な事をさも本当のことであるかのようにまことしやかに耳打ちし讒言・中傷という卑劣極まりない手段で罪なき人を陥れることである。

醜女探女のやり方は、それを聞く者に疑いの心を芽生えさせ、徐々に陰に陰に引っ張り誘い込んで行くのである。他人の噂さ話は、だれでも気になるものだから、片耳だけで聞く癖のある者は、ついついこういったつまらぬ者等の言うことに耳を貸してしまう。特に神経症的病弱型の人間にひっかかると始末におえない。

彼等は嘘や芝居が上手で、自己弁護のためには人前でもお涙頂戴式にどんな嘘八百でもまことしやかにペらぺら喋り捲るので、大抵の人は最初それを見抜けずにコロッと騙されてしまう。こうした輩(魔物)は、他人を誹謗したり中傷したりすることの罪が如何に重いものであるかということをまるで知らないのである。私たちは常々用心して、こうした卑劣な者に決して引っかかってはならない。他人を誹謗したり、悪口を言うものは、その罪のために己れもまた、それ以上の痛い目に遭うことになるものである。

巷では「女のロの過ぎたと雑炊の塩の過ぎたは始末におえぬ」とか「ぼた餅の塩の効き過ぎたのと女のロの過ぎたのとは取り返しがつかぬ」とよく言うが、男であれ女であれ、ロの過ぎる者にろくな者は居ないのが常識である。それらの者には大抵共通して真が欠如しているものであるから、よくよく注意して決して近付けてはならない。

迷うなよ 心濁れる 仇人の 言の葉こそは 身を破る鉾 (一四九五)