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(イ)祈り

祈りこそ 萬里に通ふ てだてなり
祈るその時 すぐ通うなり     (六二)

祈りの大切さ、尊さについては、ここに改めて述べるまでもないこととは思うが、御神霊が牟田氏にどのように教えてこられたかを知る事は、読者にとっても大変に有益なことと思われるので、此処で見て行きたいと思う。「神を祈る」とは例えば、「神界」という大発電所から各地の変電所を通って、各家庭まで電線がひかれており、その家の中の電気のスイッチをパチッと入れることだと思えばよいだろう。このスイッチを入れなかったら、決して電気はつかないからである。神を祈る行為は、神を招き、神と一つになることであり、神霊の偉大な力を引き出し発揮する道でもある。私たちは食事の時も、乗り物に乗っているときも、寝る時もいつも四六時中、心の中で神を祈ることを忘れてはならない。「吾れ常に神と倶にあり」である。如何なる時にも神を離さない事が大切である(夢中にも敬神せよ)。

朝起きて 先づ祈れかし 日の業を
夜寝る前に 又おん礼を      (一三一五)

寝る起る 共に先祖と 神仏
祈りの言葉 絶やさぬがよし    (一三四〇)

○ 氏子等の 祈る声こそ 神仏
先祖の霊魂の 受け取る証    (一三四一)

神信仰は例えて言えば、丁度好きな人と恋愛するように、いつもどうしたらあの人が私に振り向いてくれるだろうか、気に留めてくれるだろうかと思い続けることに似ている。

飲むにつけ 食べるにつけて 心せよ
神への祈り 夢忘るるな      (一五四)

○ 祈りとは たのむ事のみ 考へな
お礼心が まず第一ぞ       (一五五)

祈るといっても、大抵の人は「頼みごと」ばかりなのであるが、それよりも「お礼心」がもっと大切であろう。そして、神を祈る時には当然の事ながら、清らかな澄んだ心で祈るべきである。

○ 祈るなら 澄める心で 祈れかし
澄まぬ心は 神受けとらぬ    (五二五)

○ 岩清水 流るる如く 澄み渡る
清き心の 祈り尊し        (六七一)

むさ苦しい汚れた心のままで、しがみつき信心ばかりしていて、神霊になにごとかを頼んだからとて、容易に聴いて貰える筈がない。神を祈る時に、その人に清純且つひたむきな「まこと心」というものがなっかたら、これまた御神霊が聞こし召される・・・ということは困難というものである。

○ 祈る時 まこと心を 忘れなよ
百の祈りも 皆空となる      (六七〇)

祈りても まことがなくば 何かせむ
神の通い路 せき止めては     (四九二)

神を祈る時、己れの心の襟を正さずに祈っても聞き届けがないということ、単に祈ればよいというものではなくて、祈るなら清らかな澄んだ心で、まこと心で・・・ということであった。そして己れの何がしかの願い事を神霊に聞いて頂くだけでなく、確かに叶えて頂くには常日頃、神が教え説かれる道を踏み行うことが何より大切である。

○ 願う事 叶ふためには 道を踏め
吾が教へおきたる 神の道をば  (六一五)

○ 只菅に 己れを捨てて 祈るなり
それから後は 神任せなり    (九七〇)

一筋に 祈りて神に 願へかし
唯行ひが もととなるなり  (一二五〇)

「祈り」が通ずれば、必ず自ら我が魄に答えある筈であり、これは幽斎執行者として神階を授かった者には明白なことである。一般の方々であっても、必ず「夢」の形式などで教えられるものである。

少しでも祈りが神に届いて自分の願いを叶えて頂いたなら、今度は神霊の実在が心底分かった以上は、以前にも増してより一層心正しく世のため人のために生きていくならば、必ずや神霊の厚き御神助がいただけるものである。誰しもそのことをよく悟って、今後は世と人のためは勿論のこと、多くの迷い苦しむ霊魂が助かるようにと、日々神に祈るように志すことである。

○ 只祈れ 世と人のため 霊魂等が
助からむこと それのみ祈れ   (八九八)

神を祈る際には、例え御神霊の姿が見えなくても、今、目の前におられると思って、ただただ無心にひたすら祈ることである。

○ 只菅に 神を見つめて 祈れかし
神目の前に あると思へよ    (六七二)

朝夕の 祈りは神に 届くなり
此の身助かる 先祖助かる    (六六九)

朝な夕な 日に夜に祈れ 神のこと
心清らに 神を念ぜよ      (九一〇)