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六、信心の要諦

この『御神歌集』の、どの章どの項においても言える事であるが、御神歌のどの歌、どの一首といえども決してゆるがせに出来ない、私たちにとってはまことに得難く尊い教えばかりである。

この御神歌というものは、もともと項目立てて教えられたものではなく、牟田耕蔵氏の信仰の進み具合、その時その時の氏の心境を神が見通し見定めて、その折に最も適切な教えを和歌にしてお授けになったものであり、それを時系列で整理し、一冊の書にまとめたものが『御神歌集』なのである。

従って、御神歌の全てを項目毎に整理してその解説を試みるとなると、これはなかなか大変な作業であり、歌を選ぶ際にもどれが読者に一番分かり易いだろうかと大変苦慮することになるのである。 

以上の点を勘案して頂き、不足・不明の箇所についてはその都度、第五部『御神歌集』をどうか参照して戴きたく願っております。

さて、「信心の要諦」に関してであるが、本書の全編に渡って神霊は、ただただ「心の澄清」をこそ強調しておられる。「心澄むこと」、これが信心であると。まさに「心は神明の舎」であって、如何に外見が美しくあろうと、お金や名誉や地位などがあろうと、その人の真価である「こころ」というものが汚れ、「たましひ」が穢れて真っ黒であれば、人として何の価値も無い。いわゆる、「外面如菩薩、内面如夜叉」では困るのである。本田翁が言われる如く、霊学であれ信心であれ、「浄心を以て基となす」のであり、如何にして己が見苦しい我欲を去り、心の中に「まこと」を築くかが非常に大切なこととなってくるのである。

 ○只心 心すめよと 祈れかし
   心澄むこと これが信心    (二十)

 また、信心はひたすら神に頼り祈ること、そして神の教えを守り通すことである、とも言っておられる。

 ○信心は 神にたよりて 祈ること
   神の教へを 守る事なり    (一九)

私たちはとかく何でも自分で考え、決定し、かつ行動していると勝手に思い込み勝ちなのであるが、実は知らず知らずの内に何者かが背後から私たちにそのように思わせ、そのように考えさせ、そのようにさせている・・・ということだって、実際には多々あるのである。そしてそのようにそそのかしている正体はというと、善なることは善神が、悪しきことは妖魅・邪霊(悪霊)が・・・。

従って、何事においても、「俺が」「私が」「自分が」といった見苦しい「が(我)」があるうちは、信心というものがわかった、身についたなどとは決して言えないものである。

 ○信心を 吾がするなどと 思うなよ
   神がさせるが まこと信心   (五七)

御神霊は「己が信心」「自分がする信心」だなどと思っている者は、それは「いつわり」であると厳しく戒めておられる。

  信心も 神に任せよ 気はらくじゃ
   おのが信心 これはいつわり  (五八)

次に、信心というものは、何といっても「徳を積むことが第一」であると教えておられる。誰でも信心は「自分が或いは家族が幸せになりたいためにするもの」と思っているが、本当は分かってくれば、他人のためにするものなのである。

 ○己が栄え 己が子供の ことばかり
   祈るは未だ まことなきなり  (九二三)

  世の人と 霊魂の事を 祈るなら
   祈らずとても 吾が身助かる  (九二四)

何事も「他人さま第一」になって来なければ、「信心している」などと人には言えないものである。「自分の為に」「自分が良くなるため」であれば、どんな人だって誰に頼まれなくとも必死になって日々努力しているものだからである。信心は神さま・佛さまの御心を習って、その山よりも高く、海よりも深い愛(大愛)と大慈悲心の持ち主にならせていただくのが主眼であるのに、いつまでも「自分第一」というのでは笑われようというものである。それでは人として価値がなく、恥知らずと言われても仕方がない。そして、親ならば、吾が子たちを少しでも「世のため人のため」に役立つ人間になってくれるようにと育てなければ嘘である。何ひとつ礼儀も知らぬ、「有難う」「すみません」のことば一つ素直に言えないような、ただ人や社会に迷惑を掛けるだけのどうしようもない人間を社会に送り出してはならないのである。

 ○信心は 徳を積む事 第一じゃ
   徳なき人の そのあわれさよ  (三〇)

「神の教え」は世間に五万とあるけれど、一言で言えばそれは「信心」の二字に尽きるものであり、そしてその「信心」を言い換えれば「まこと心」と言っても同様である。そして又、この「まこと」こそが「真の宝」と言うべきものであり、すべてを生み出す大本であり、慈悲といい、智恵といい、これらはすべて「まこと心」から出てくるものである。

 ○神の教へ 種々様々に あるなれど
   ただ信心の 二字につきるぞ  (四八五)

 ○信心は まこと心と 言ふもよし
   神へのまこと 人へのまこと  (四八六)

 まことこそ この世あの世の 宝なり
  宝うみ出す その大もとぞ    (四八七)

 慈悲と言ひ 智恵と申すも 元一つ
  まこと心が ちえを生むなり   (四八八)

  少しでも まこと心に すきあらば
   悪鬼邪霊の 住み家とぞなる  (四八九)

  悪運も よき運命も 世にはなし
   まことあるなし 之で定る   (四九〇)

 ○吾が運は 吾がまことにて 造り出せ
   まこと心に 神が来るなり   (四九一)

 人様への施しというものも、金銭や物を施すのは初歩のうちなのであって、やはり最後はまことの神の道や、人としての真に生きる道を取り次がせて戴く・・・ということが大切であると、神霊は教えられるのである。

 ○施しは 物施すは まず始め
   道を教ゆる これ終りなり   (六一八)

 物の慾 欲しい惜しいを 先づすてて
   神の恵の 露に生きなむ    (六一七)

 さて、以下に『御神歌集』から幾首かを抜粋して読者の参考に挙げておこう。

 目ざめなば 先ず第一に おん礼じゃ
  その日その日を 神護るなり  (一〇三四)

 世の業を なすにつけても 神の事
  常に心に 念じ念ぜよ     (一〇三七)

 信心は 心を安く するものぞ
  無駄な考へ 何もいらぬぞ    (四〇三)

 信心の とどく氏子に 願ひなし
  御礼 ゝ で 只有り難し      (二二八)

 かくり世の さまも見せたや 氏子等よ
  めぐりめぐれる 罪のありさま  (一〇一)

 罪を消す 汚れを祓ふ 神の業
  悟れ氏子よ 神のまごころ    (一〇二)

 ○争はず ねたまず くやまず 悲しまず 
   人の苦しみ 吾がものとせよ  (六一六)

 心して 誠の道を 歩けかし
  不幸災難 すべて消えゆく    (二五五)

 心清く 怒り悲しみ 憂ひなし
  先の心配 これもせぬぞや   (一〇〇八)

 只一人 信心すれば 妻や子も
  親兄弟も 浮かばせるなり   (一〇一一)

 神の誠 人への誠 誠とは
  心清めて 円く行くこと    (一〇八二)

 み訓へを 寝てもさめても 行じ行け
  たえぬ信心 まこと信心    (一二四九)

 常日頃 祈り絶えさず 神の事
  行じおくのが まこと信心   (一二五二)

 信心を己がものなど 考へな
  神の恵みの 有り難きもの   (一二六三)

 降る雨も 照る日もともに 神の業
  氏子の心で よしあしとなる   (一〇八)

 任すとは 己が心の こりをとり
  神の情けを 身に沁みること  (一四六六)

 頂きに 出でたる時に 休らはず
  まずひれ伏せよ 神のみ前に  (二二二八)

 頂きに 身をおきたる時ぞ 大切ぞ
  よく誤るは 此の一刹那    (二二二九)