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五、神と人(氏子)

○ みどり子が 母の手により 抱かれる
    その有様じゃ 神と人とは  (二〇五)

西洋世界では、『聖書』によれば、人間は主なる神によって土のちりを捏ね回して神に似せて人を造り(神の似像)、命の息をその鼻に吹き入れて生きた者とされたのであり、そこでは人は主なる神とは決定的に相違し、神の被造物でしかない。

しかし日本では、記紀などの神話を見ると、人は神によって生まれたものであり、つまり神と人とは生み・生まれといった密接な親子の関係にあるということが分かる。つまり西洋世界に見るような、神と人の間の断絶というものが日本神話には見られないのである。では実際にはどのようであろうか。『御神歌集』を基に神霊の教えを伺ってみる事としよう。

冒頭の御神歌にあるように、わが国の「神と人との関係」「神と氏子との関係」はあたかも赤子が母親に抱かれているような、ほのぼのとした「母子の関係」であると、神霊は教えられるのである。神は私たちの生みの母親なのである。これはなんという有難いことであろうか。このように日本各地の産土大神(氏神)とその地域住民(氏子・産子)との間には、誰知らずとも往古から切っても切れぬ密接な親・子の関係が存するのである。

 ○吾が子見て 喜ばぬ親は なかりけり
  神と氏子も また変らぬぞ     (四四)

読者にはこの歌を聞いて、これまで手の届かない遠いはるか彼方におられた神霊が、一度でごく身近に感じられるようになられたのではないでしょうか。

 ○神の慈悲 何にたとへて 知らさなむ
   みどり子はぐくむ 母の情けに (二〇四)
  親の慈悲 悟りし子等は しあはせぞ
   神の慈悲知る 氏子等もまた   (五四)

私たちにとって、御神霊は決して手の届かない遠い存在、又、怖ろしくて非常に厳しい存在などではなく、いつも私たちのことを心配し気に掛けて、陰からそっと見守っておられる母親のような存在なのだということが今、分かったのである。それなのに私達はこれまで、こんな大切なことを何も知らずに生きてきたわけであるが、これは一体誰の罪なのであろうか。こんな、こんな大切なことを、これまで親も先生も誰ひとりあなたに教えてはくれなかったのですから。正確に言えば、これまでこうした神様のことを分かった人が、正しく教えられる者が何処にも居なかったのです。

 ○限りなき 神の情けを 知るものは
   千萬人の 中の一人ぞ     (二〇〇)

思えば知らぬこととはいえ、私たちはこれまでどんなに神に心配や迷惑をかけ、かつ助けられ、護られてきたのでしょうか。私たちはその万分の一にも気付いてはいないわけです。 私たちが「あぁ、あれも神様が助けてくださったのか」「あぁ、あの時も神さまが救ってくださったのか」と気付くのは、神霊の御守りの内のほんの一部でしかない。私たちの気付く御蔭が小石とするなら、まだ全く気付いてもいない御蔭が山のようにあるということ、つまり何も分かっちゃいないんだというわけです。「山と小石の違い」があるのだと神霊が仰る言の葉を、此処で深く考え直して見ましょう。

 ○知るみかげ 知らぬみかげと 比ぶれば    山と小石の 違いあるなり   (二〇二)

可愛いゝ吾が子なればこそ、親はその子の将来を思って、叱るべき時には叱るように、それは神さまであっても同様なのである。叱られて親を恨むようではまだまだ幼く、未熟者と言われても仕方ありません。あまりに言う事を聞かないために、親に愛想をつかされてしまい、何をしようと全然叱られなくなったとしたらむしろ、その方が子供にとっては怖いものです。

 ○可愛いい子 親も時々 叱るなり
   氏子助ける 神のはからひ    (六〇)
  叱られて 親を恨むな 子供等よ
   神の情けも 親の情けじゃ    (五九)
  しあはせな 氏子は神に 叱られる
   叱られぬ時 これがあぶない   (六一)
  諸々の 世の業神が 之を知る
   神之を立つ 之を信ぜよ    (一四九七)
  神に念じ 神に任せ 進めかし
   必ず立つぞ 諸々のわざ    (一四九九)
  朝な夕な 為す事すべて 神のわざ
   神の恵みと 受けとりて行け  (一五〇一)
  神世とは 遠き昔の ことならで
   今を神世と 知る人ぞ神    (二二二〇)