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三、神の道 (続き)

何事も下座に徹して、「神の教え」を一つ一つ身をもって実行していくことを心掛け、一歩一歩神の道を歩ませて頂く中で自得体験させて頂いたことを取り次いでこそ真実であり、「まこと」も立とうというものである。口先きだけ、理屈だけで実行の伴わない、従って「神霊と直接する」といった体験のなき者等の、単にこけおどしのつまらぬ世間の肩書きを書き連ねただけの外見を装ったお粗末な「神道論」など、人が真に生きていく上に何の役にも立ちはしないと知るべきである。

そして次の歌は、世の中には神の教えというものは世間に様々にあるけれども、一言で言えばただ「信心」の二字に尽きると、神霊は教えておられる。

○神の教へ 種々様々に あるなれど
ただ信心の 二字につきるぞ (四八五)

神のお働きは、何か天井から牡丹餅が落ちてくるといったような奇異な目立ったものではないから、ウカウカしているとつい見落とし、気付かずにいるものである。故に、何事にもよくよく注意を怠らず、自分の身の回りに起こってくるあらゆる事象の背後に「神あり」とひしひしと気付くことが大切である。

○神業は 時の流れに 乗り来る
身に起ること 気をつけておけ(一二一八)

○花も過ぎ 若葉も出でん 時移る
時に従え これ神の道(一八二七)

また、神の道を歩む者はどこまでも下座に徹し、決して慢心してはならぬと厳しく戒めておられるが、これは言うまでもないことである。これについては第三章「現象(実相)編」の六、信心の要諦の(ハ)「疑いと慢心」の項を併せて参照されたい。

○神の道 開く氏子の あやまちは
慢心おこす それが大もと   (二八六)

神習ふ 道こそいとも かしこけれ
慣れず恐れず おごりもせずに  (五〇二)

○神習ふ 人は此の世の 宝なり
人知らずとも 神これを知る    (五〇三)

神霊は私たちの一挙手一投足をすべてご存知であり、よもやと思うことでさえも、その人が心の中でフッと思ったその瞬間に全てお見通しで一切を御存知なのであるから、どんなことも隠すことなど決してできるものではない。そして、その人の良き思いは決してその儘にはされずに、良き方向へと必ず導いて行ってくださるのであるから、まことに有難いことである。私たちはご神霊の目を決して節穴と思って侮ってはなるまい。心から真に神霊のためにお仕えする者には、衣・食・住の事を思い煩う必要のないことを、心底身に沁みて覚える事が大切である。

神の道に生きる者には分かれば分かるほど、至れり尽せりの神霊の御守護があるものであるから、病いや事故や災難などを決して恐れたり、不安がったりしてはならない。また、世間ではよく「恐れるものは来る」とも、「不幸を言い当てる」とも言うから、常々不幸な言葉を吐いたりすることを極力慎み、ただただ神一筋に信じて行けばそれが一番結構なのである。

○恐れるな 病・災難 不幸など
神の道では 総てなきもの       (九二五)

○心清く 怒り悲しみ 憂ひなし
先の心配 これもせぬぞや     (一〇〇八)

先のこと 心配するは いらぬ事
暗き心は 神にあづけよ     (一〇〇九)

先の事 心配すれば 神の息
神の恵みを 己が断ち切る   (一〇一〇)

世の中の 富や宝も 皆夢じゃ
さめて残るは 神の道のみ   (一〇一五)

何処の箇所でも申し上げることであるが、神・仏の道は「信」の一字を心に刻み、いつもシッカリと噛み締めて行くことが大切である。
線香花火のような束の間の人生とは言え、その途上には苦しくつらい、悲しい出来事が相次ぎ起こって、つい自暴自棄したくなったり絶望の淵に立たされたりと、実に色んな事があるものだ。そんな時、誰でも「あせり」を生じて、一刻も早く暗い人生のトンネルを抜け出したいとあがき回るものだが、あがけばあがくほど、より一層己れの置かれた苦悩の闇は深くなる。あせらず時を「待つ」ということの難しさ・・・。頭で分かってはいても、どうしても「天の時を得る」「神の計らう時を待つ」ということが人には出来難く、もう一歩の辛抱が出来ずに、とうとう耐え切れなくなって、自ら愚行を犯してしまう。

もうちょっとでトンネルを抜け出て、明るい世界が待っているというのに・・・。

○日入りて 暗きを嘆く 愚か者
昇る朝日を 安らかに待て     (一四〇三)
一日の 苦労は今宵迄ぢゃ 明日の朝は 必ず旭 さし出づる
暗き時は 暗き時 その儘に 素直に己が 心を磨きゆけ

こうした時は自分の力だけで歩こうとせずに、神の教えをシッカリ噛み締めて、一筋に神を祈り、神の御灯りの射す所に己れ自身を置くことが大切である。

○常日頃 神の御灯り 射す所
射す所にぞ 己れをば置け      (一四〇五)
(己れとは神と一体の意味)

世の業も 此の世のたつきも 神の道
踏まむがための 本と知れかし (一六七八)

世の業に 只囚はれて うかうかと
本を捨てなむ 身ぞ危うかり   (一六七九)

さらさらと 流るゝ水に 浮む花
じっと見つめよ そこに神あり (一八二九)

散る花を 世の常人は 嘆くらむ
萌え出る若葉の 姿忘れて     (一八三〇)

神の水 沸き出づる井戸 深々と
ただ堀り下げて おくが道なり (一八八〇)

負けてよし 勝つこといらぬ 吾がちゑで
勝ち負け分る 人はなきもの    (二〇五六)