神の道

三、神の道
幾千萬年 流れて変らぬ 神の道
雨に濁らず 止まりもせず (八六五)
「神の道」に関しては、これまでも国学者や研究者らの人智による様々な解釈があるけれども、それらは決して正神界の誠の神霊に直接し得るものが書いたというものでは決してなく、言わばそれ等はただ単に文献をこね回し、憶測をつなぎあわせたものにしか過ぎず、従って、此処ではそうしたものは一切参照せず、ただ神霊の教えられるままを素直に見ていきたいと思う。
只円く まるくまるくと 歩くなり
円く歩くが 神の道なり (十)
何事も 丸く治まれ 丸丸と
おさまる事が 神の道なり (二〇五五)
神の道はこの世で救済のみか、あの世の末までも助かる尊い道であり、如何なる場合も細く尖らず、人との争いや摩擦を極力避け、ただ円く円く行け…と教えられるのである。
さきの世の 又さきの世の 末までも
助かる道が 神の道なり (二三)
世の中を 円く渡るが 神の道
細くとがるな 気を広くもて (二四)
従来の神道、「神の道」は生(顕)の一部に触れただけの神道であり、「死」ないし「死後の霊魂の帰趨(幽)」などについては全く御手あげ状態であり、従って何等真剣に考えず、且つ熱心に説いてはこなかったが、御神霊は現し世だけでなく先の世(幽り世)の事も述べるが神の道であると、ハッキリ明言しておられる。
現し世の 事ものべたり 先の世の
事も述べるが 神の道なり (八七四)
また次の歌は、普段私たちはこの世での生活、つまり「世の業」のみに一生懸命に憂き身をやつしているのであるが、神の道を歩まずして世の業を立てるのは難しい・・・との教えである。
世の中の わざを立てるは いと易し
立て難きもの 神の道なり (二二一)
神の道 立たずになどか 世の中の
わざ立たむこと やはあるべきぞ (二二二)
世の中には「神の道」とはこうである、ああである・・・などと、さも何でも分かったかのように人前で恥ずかし気もなく語ったり、カルチャー本程度の何ら中味のない実にくだらない本を何冊も書く者がいるが、その実、「神霊」について何一つ分かっては居ないのである。「神の道」とはそういう愚かな者等の言う屁理屈の道では決してない。
神道は身をもって行じてこそ、その者の熱意と真心に応じて少しずつ分からせて頂ける、まことに尊いお道なのであり、何等の専門的知識を有しない一般人ならばともかくも、「神仕えを専門とする神職」でありながら、神霊との直接体験も無き者が恰も分かったかの振りをして、浅い人間知恵のみで語れるような簡単な道では決してないのである。少しは「神界の厳しさ」、「神霊の恐ろしさ」というものを神職は知って欲しいものである。
神の道は理(知)における悟りではなく、浄心を基とした自らの日々の厳しい修行による体験・体認に基づく覚りでなければ決して本物ではなく、且つ、絶対に身につかないものであるということを知って頂きたいものである。一見、同じような事を語っているようであっても、実はそこには天地の差があるものである。故に、神霊と直接し得ぬものが「神道」を決して語るべきではない。
言の葉に 教ゆる者は いと多し
身を尽さむ氏子 神は求むる (一二〇三))
言の葉に のぼるは神の 道ならず
吾が身行じて 人に伝へよ (一二〇四)