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(ロ)「今」の一時

今の時 今の一時 よく惜しめ
その一時で 此の身助かる   (六六五)

あの世にて 千萬年の 修行をも
此の世只今 この一時ぞ    (六二七)

昔の人はうまいことを言ったものだ。「若い時の苦労は買ってでもせよ」とか、「可愛いい子には旅させよ」とか、「他人の釜の飯を喰わせよ」などと。

人は不遇な時が長かったり、人生の途上で途端の苦しみや悲しみに遭遇すると、早くそれから逃れようとする心理が働くものである。また、若い内からとかく早く良くなりたい、早く幸せになりたい・・・などと強く願い、そのためついつい「あせり」が生じて、もう少しで完成する筈のものが失敗し中途挫折を余儀なくされたり、折角順調に行きかけた仕事やその他の事柄で往々つまずいたりするものである。

谷川を 流るる水の 渕となり
しばし淀むも 時を待つため  (一八五六)

何事にも「天の時」というものがあるのだが、若いうちはとかく「待つ」ということがとても難しく、なかなか辛抱出来ないものである。

何事も ときよ時節じゃ あせるなよ
神がはからふ 時を待つべし   (七五)

何事も 神に任せて 時を待て
必ず神が 計ひとらす      (七六)

この世に生を受けた以上は、意識するとしないとに関わらず、私たちは日一日と死へ向って着実に進んでいる事は間違いない事実である。そしてたとい無為に過ごした一時間であっても一日であっても、逆立ちをしようが何をしようが絶対に取り戻すことは出来ない。
机の上に札束を何十億円・何百億円積み上げようと、あなたが失った「今日」という一日は、過ぎ去った時間はもはや決して買い戻す事ができない。私たちはそれほどに大切な、二度とはない掛け替えのない「生命の時間」を今、こうして生きているのである。

此の世なる 只一時の 間こそ
いとも尊し いとも惜しけれ   (六二八)

今聴かず いつの世とてか 聴くならむ
いつの世とてか 神を知るらむ    (六三二)

うかうかと 過ぎなば 八十路の時も亦
何甲斐あらむ 夢の又夢   (一五六九)

此の時を 只大切と 生きてゆけ
三十路を超えぬ 身でも助かる (一五七〇)

「時は金なり」とはよく聴く言葉だが、そうではなくて「時は生命なり」と知るべきである。生命の時間は誰にとってもお金には替え難いものだからである。

現し世の 今の一時 それが又
先の世生かす もととなるなり (一五六五)

私たちは自分の志次第では、今日のこの一瞬で全く別人に変わり得るのである。本書を手にした読者が「そうだ」と真に心の底から決意するなら、この一瞬でこれまでの過去の自分と決別し、新しく生まれ変わり得るのである。

「今」の一時というものが、私たちにとって如何に何者にも代え難い、貴重な時間であることか。

過ぎこせる 此の世の年は 今日迄ぢゃ
今日生れたる みどり子になれ  (一五九二)

明日はあす 昨日はきのふ 気にかけな
神の教えは 今が大切      (三二)

浮き沈み 節もあるなり 吾が行く手
昨日は問はぬ すべて今日なり  (一四五三)

先の世は 如何なる世など 思はずに
只今をのみ 生かしてぞ行け  (一五六六)

此の世をば 仇な世なりと 思ふなよ
永久に助かる もと造る世ぢゃ (一五六八)

昔言ふ 只邯鄲の 一炊ぢゃ
やがて捨てなむ 身をば惜しむな(一五七一)

うたかたの 世の業は只 一時ぞ
水の流れに 浮かぶ水泡ぞ   (一七五〇)

花も過ぎ 若葉も出でん 時移る
時の従え これ神の道     (一八二七)

二、真に「助かる」とは

助かると 云う言葉をば 間違えな
此の世の事は 只前置きじゃ   (四五七)

私たちが普段「助かる」と言う時、それは不足の金銭を融通してもらったり、病に苦しんでいた人が治療・看病よろしきを得て完治したり、人間関係の煩わしさから解放されたり…と、全てこの世の肉体人間に関する困った問題が解消した時に使うのであるが、神霊が言うところの「助かる」「助ける」とは、主に霊魂に関してなのであり、例えば次のように教えておられる。

まこと神が 助けると言ふ その事は
神の道をば 悟らせること    (六二一)

助かると 言ふは因縁 切れること
神のみ国の ものとなること   (五七五)

つまり、神霊が教える「助かる」というのは、この肉体に関わることだけではなくて、霊魂が真に助かり浮かぶことであり、「助ける」とは「神の道」を悟らせることであるというのである。

助かると 申すは肉の 身に非ず
霊魂助かり 浮ぶことなり  (一八三四)

世にある病気直しや、様々な人助けもそれはそれで悪いとは言わないが、ただそれだけでは真に根本から助けたことにはならず、また、慈悲とは言えぬと教えられるのである。

病なほし 人助ける それもよし
只それのみにては 慈悲と言はれぬ(六二〇)

神霊はどこまでも、落ちて苦しむ霊魂を救い上げよと仰っておられるのである。

霊魂等を助くる事が 現し世の
人その儘に 助かる事ぞ    (一四三五)

助かれよ 久遠に生きよ わが霊の
迷はぬ様に よく心せよ    (一六七〇)

氏子等の 助かることは ただ一つ
心をなほす ことにこそあれ   (一二六)

花火散る 短き世とて 油断すな
永きあの世の 助けのもとじゃ  (三八三)

霊魂等の 喜ぶ事が 現し世の
人その儘の 喜びとなる    (一四三四)

慾を捨て 我情を捨てて 人の為
計ふ時に 己れ助かる     (一四四一)

祈るより 先ず吾が心 清むれば
念々神の 息吹に通ふ     (一五二二)

吾が心 濁れるままに 祈るとも
神の息吹きは など通ふべき   (一五二三)