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(イ)あの世とこの世

(イ)あの世とこの世

此の世とも 又あの世とも 云ふなれど
皆共にこそ ここにあるなり   (八九)

顕幽を 限るものとて 非ざれば
生死もなきぞ吾がたまもなし  (一四〇〇)
(現し世 幽り世と云うことは本来無いことじゃ)

顕幽を 限るものとて 非ざれば
何れに遊ぶ 吾がたまもなし  (一四〇一)

顕幽は 神の定めぬ ものなれば
そのけじめなど あるべきもなし(一四〇二)

霊学中興の祖、本田親徳翁の著『道之大原』には、「心眼赫々、固より幽顕無く、死生理を一にす。何ぞ之を二と為さんや」と述べており、『御神歌集』の教えと全く遜色がない点は驚きである。

現し世も あの世も別に 変りなし
凡夫の身では それが判らぬ   (六〇九)

人間死後の「魂の行方」については、すでに拙著『古神道の秘儀』(一七二~一七三頁)にも述べておいた。一霊にせよ、四魂にもせよ、産土神に通じ。生魂の御総代である阿遲志貴高日子根神の裁判により、善悪のけじめをつけられ、神の元素(精神元素)に戻り、しかも此の世で善徳を積まれた方はその徳により、その魂をもって従神として神界に帰属し、或いは縁ある神社に奉仕するもの・・・と知っておかれればよいと思う。

さて、一般には「あの世」と言えば、人が死んで後に三途の川を渡って行くべき他界、死者の霊魂の住する世界であると考えている人がほとんどであろう。とある仏教団体では西方十萬億度の彼方にある世界、即ち極楽浄土と説いている。あの世が無限の彼方と言うのはつまり、「そんなものは無い」と言っているのと同義であろう。そもそも仏教の教えでは、此の世は「苦界(苦しみの世界)」であり、燃え盛る家に例えて「火宅の世(この世の汚濁と苦悩に悩まされて安住できない世界)」とも説き、また「厭離穢土(煩悩に汚れた忌み嫌うべき世界)」とも説き、「欣求浄土」と対をなす。釈迦牟尼世尊は臨終の時に臨んで、その弟子アーナンダに「われは斯くの如くにして涅槃に至らん」と言ったとあるように、つまりこの世は生きている限りは四苦八苦から逃れられない苦悩と煩悩に苛まれる地獄そのものであり、死ぬことによって人はやっと真の安らぎをが得られるのだと教えている。

それなのに、お盆や春秋のお彼岸になると、折角極楽に行って安住している死者の霊魂たちを、この苦しみの世界である地獄になぜ無理やり呼び戻そうとするのか?。あまりといえばあまりにむごい仕打ちではないか。理論矛盾も甚だしいのではないか。ところが、ご神霊は「あの世」も「この世」も皆此処にあるのだと教えておられるのである。そして、この世の人間も、あの世の肉体を失くして霊魂のみになった死者たちも、私たちが知らないだけで実はいつも「共に居るのだ」と教えておられる。それはただ次元が異なるために、私たちには見えないだけで、生者も死者も一緒なのであると。

人の世と みたまの世とは 共にあり
人とみたまと 又ともに在り   (二一四)

かくり世も 今の世も共に 同じもの
別にへだての あるべきもなし   (九〇)

かくり世の みたまも此の世の 現人も
神の手にこそ 抱かれてあり (九一)

そして、この世よりも、あの世の方が比べものにならない程長いのだとも。

これは大変なことになりました。私たちはたかだか八十年から百年あまりの線香花火のようなはかない人生を、「これがすべてだ」と思って生きてきたわけですから。あの世があるなんて、まして死んで後も、霊魂となって千萬年という気が遠くなる程の霊的生命を生きて行かなければならないなんて?。これまで「あの世」のことについて誰も教えてはくれなかったし、また何にも勉強や準備なんかしていないのに・・・。

さきの世と この世の永さ 比ぶれば
千萬年と 火花散る間ぞ    (二四二)

でもまあ古今東西、皆「死ぬ」ことに失敗した人は、地球上に一人だって居やしないんだからどうにかなるでしょう。ですから私たちはより良く「生きる」ことだけを考え、また神に任せてまいりましょう。

生きむこと 死なむことども 考えな
生死はともに 神の手に在り    (八八)

つづく