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神と人とのあり方 22 その2

本書を執筆するに当たり、著者は敢えて「神の道」とか「佛の道」にこだわらず、国家再生の願いを込め、一人でも多くの日本の方々に、あるいは世界各国の方々に「わが国の精神文化」の根底に今なお脈打ち滔々として流れているものの何たるかを、そしてまた「本当の神道」とは如何なるものであるかを、「日本の神々の御心」、「天皇の真実」を知っていただきたく切に願って筆を走らせているのである。

再三で恐れ入るが、「神」と一口に言っても、遠い神代の昔から始めなく終わりなく神々の世界で或いは この自然界でと幽顕の区別無く活動しておられる無形の偉大なる神々もおられれば、また例えば菅原道真公のように過去にこの世に生を受けた歴史的実在の人間も学問の神として祭られてもいる。あるいは又、人ならぬ蛇が「夜刀の神」として、狼が「大口の真神」として畏きものに属し、海にはわだつみの神が、山に山の神がそれぞれ領いでおられる…ということは、記紀古典や風土記などにも見ることが出来るのであり、それらと外来の蕃神である観世音菩薩や地蔵菩薩などをすべて同じものだと同一視して考えるのは土台無理と言うものである。それで、本書の読者には次のように解しておかれたら良いと思う。

つまり、これまでにも各項で「神・佛・ほとけ」と三者を区別し、この三本の柱を大切にして欲しいと言ってきた訳だが、まず上位に神が坐し、その神の下に佛さま(いわゆる阿弥陀如来さまとか、観世音菩薩さまとか、大曰如来さまたち十三佛さま)方がおられ、そしてその下にほとけさま(親・先祖の霊魂いわゆる死者のみたま)たちがおられる…というように理解しておかれたい。シッカリと知っておいて欲しいことであるが、わが国「仏教界」の数々の開祖とも称される方々は、例え日蓮さんであれ、一遍さんであれ、親鸞さんであれ、決して神祇を粗略に扱われるような愚かな僧侶は一人も居なかったのである。凡そこうした点を頭の隅に入れておいてから、以下を読み進んで頂ければ幸いに思う。

あの道ぢゃ 此の道じゃとて あげつらふ
時ではないぞ 今の吾が国

悩み苦しむ多くの人々、悲痛な叫び声をあげて助けを求める無数の死者の霊魂を一刻も早く救わなければならない時に、やれ神だ仏だなどとあげつらう時ではないぞとのお叱りの歌である。いつの世も、自分のことばかりを考える人間が多く、心から霊魂の苦しみを吾が苦しみと感じて、いとしい霊魂を何とかして早く救わねば…との救いの悲願を起すような誠の人はなかなかに居ないものであり、それがまた神の嘆きでもある。

心より 霊魂いとしと 思ふ人
神は嘆くぞ その少きを

もしも、己が親・先祖の霊魂の有様を手に取る如くに有り有りと見ることが出来たなら、霊魂が食べるものも無く、飲む一杯のお茶さえもなく、餓鬼のように骨と皮ばかりの見るも哀れな姿を、その必死に苦しみもがく無惨な惨状を見て、誰しも霊魂救済の悲願を起さぬ者はいないであろう。何も分からないからこそ、人はついうかうかとし、自分や家族の身に何かことが起こると、はじめて「何故だろう」と首を傾げる位の程度のことなのである。

つづく
(『日本神道の秘儀より』掲載)