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神と人のあり方  20

五 神の御旨の使い

助けたや 悩める氏子 助けたや
大神様の 御催促なり

助からぬ 氏子多くば 大神の
おん嘆きこそ おし計られぬ

住吉大神の御心は、悩み苦しむ多くの氏子等や霊魂等をいち早く救い出したいとの大御心であった。
こうした日本の神々の、国と民とを想う真実を、これまで誰も知らなかったし、また解き明かす者さえ居なかったため、神霊のことが分からぬままにスッカリ神を見失い、大切な「畏敬の心」さえ無くしてしまったのである。

また、神霊が実在し御活動になっている真実が分からぬために、世間ではこれまで形骸化した「死んだ神道」ばかりが説かれてきたのである。

これはそもそも誰の罪なのであろうか。

神道は神に選ばれた心清きまことの者が、身を以て生命を賭けての「行」を実践することによって、正しき神霊と直接し得てこそ、初めて神と人とが一つに結ばれ(神人合一)、真の「生きた神道」となるのである。

神道は「生成化育の道」であり、理屈や理論ではなく、「行によって立つ道」であるを決して忘れてはなるまい。

救ひたし 助けたきもの 氏子等よ
氏子頼むぞ 助かりてくれ

神霊が人に懸かる際には、「神との特別の神縁を有する者」「厳しい選び」というものがあり、誰にでも懸かるというものではないことを初めに知っておいて頂きたい。住吉大神との深い縁を有する牟田耕蔵氏に白羽の矢が立って、「悩める氏子助けたし」との大神の悲願を成就なさしめんがために、牟田氏は大神に仕える大山彦の神と浦安の神という二柱の御脊属神から、直接の神道修行を受けることになった。

その神々の教えは歌神(住吉大神は和歌三神の一柱であり、和歌文学の神として信仰されている)にふさわしく、三十一文字の和歌形式によるものであった。

あるじ今 神の教へを 書き留めて
神の御旨の使ひとぞなれ

此の世にて そのまヽ神と なる身こそ
千萬人に 一人も難し

こうして住吉大神の御旨を受けて、その眷属神である大山彦神と浦安神の二神が、大神との縁深き牟田耕蔵氏に神の教えを和歌形式で次々に出され、直接指導されることになったが、その初めは世の中がまだ混沌とした終戦直後の昭和二十一年三月三十一日夜のことであった。

〈丸丸の神〉只頼め 神に頼みて 祈るなり
只一筋の 吾がまことなり

〈浦安の神〉あらたのし 浦安の 神出でませば
世のみ栄へなり 国のみ栄え

〈丸丸の神〉丸々の 神は出でたり 喜ばし
すべて世のため 人のためなり

(注、丸丸の神とは「大山彦の神」の仮の名である)

大神や眷属神にとっては、神縁ある牟田氏とその家族は神の生みの子所謂「御子」であり、「神のいとし子」なのであって、この両者の関係はまさにうるわしい「親子の関係」に相当しよう。ここにも日本における神々と国民との在りようが、両者の仲睦まじい密接な関係というものがよく現れている。次の御神歌はそれをよく物語っているといえよう。人々を助けたい心の大神の御心は、その御子でありいとしい氏子でもある牟田氏に神の悲願の実現を「頼み、頼むぞ」とまで言われ、その少しも早い達成を切に願っておられるのである。

氏子見る 神の喜び いかばかり
子にめぐりあいたる 親の喜び

氏子等よ 神のいとし子 氏子等よ
神はたのむぞ 頼み頼むぞ