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「自然即神」

 心なく さへずる鳥も 神のわざ
  神のお使ひ 教への使ひ

 山の木も 河の流れも 神の業 
夢おろそかに 考へるなよ

 私たちは悠久の昔から、自然そのものに生命の息吹きを、あるいは神霊のおはたらきを感じ取り、人と自然とが仲良く結び合い融合し、一体化し、助け合って共に暮らしてきたものである。ところが今日の日本人ときたらどうであろうか。大自然という、何かしら目に見えぬ大いなるものとのいのちの繋がりや、それへの畏敬の心をスッカリ失ってしまい、近視眼的に自分のことばかりしか考えなくなってしまった。

 晴れたら晴れたで「暑い」と不足を言い、雨が降れば降ったで「うっとうしい」「憂欝だ」とぼやき、神々の絶え間なき御活動に感謝するどころか、不足不満ばかり並べ立てるのが勝手気儘な現代人の傾向である。古へは天候も順調で、「五風十雨」が常であったとも言われるが、今日、異常気象などといわれるこうした気候の大きな乱れはみな、神々と厭離し、畏敬の心を失って傲慢そのものに成り果てた人間たちの意志想念の汚濁がなせる業であり、すべては自業自得とも言えるのである。
 
 降る雨も 照る日も皆これ 神の業
 氏分を活かす 深き計らい

 地のめぐり 天のめぐりも 神業じゃ
 皆是氏子 助けむがため

 現し世に 生けるものとて 皆すべて
 神の息吹の つくりしものぞ

 草も木も 流るヽ水も 行く雲も
  神の息吹の かヽらぬはなし

 虫の音を 聴いて悟るは 吾が霊の
  いと高きこと それを喜べ

 サラサラと清らかに流れる小川のせせらぎの心地よさ、山登りの度にいつも「水の豊かさ」に心救われる思いがするのは決して私だけではあるまい。枝垂れ梅の根元に咲く、母が好きだった都忘れの花、清流の両脇に無数に飛び交い、点滅する蛍たちを家族と共に見ながら、遠く過ぎ去った幼い日々を追憶し、幻想的な気分に浸る束の間のひととき。このような時は、人と生まれ出たことの幸せをしみじみと感じさせて頂くものだ。

 神の智恵 此の大天地にぞ 満ち渡る
  神の息吹に 皆包まるゝ

 豊かにぞ 稔りみちびく 此の雨は
  神賜りし 如意宝珠なり

 出づる日も 流るヽ水も 降る雨も 
  如意宝珠なりと 只拝むべし

 かと思うと、静かに味わい眺めておればよいものを、其の辺りに光っていた蛍をすべて、瞬く間に網で取ってしまう心無き者たち。清流にわずかしか居ない小さなサワガニを、川の中に入り込んでまで全部取り尽くしてしまう親子連れ。何と興のないことをする者等だろうか。しかも神域内だというのに…。人の些細な、密かな楽しみまでも平気で踏み躙る者等…こういう愚か者の親に育てられる子供たちは、大きくなってもきっと、この親と同じ事を子供にして見せるのであろう。
 斯様に、人々は、親子三代に渡って愚か者に成り下がってしまったのである。やたらと憤慨し嘆くのも体に悪いと思いつヽも、現代の人々のあまりの愚かさ、こころ無い無慈悲な行状に、思わずアァッと嘆息させられることしばしばである。

斯くまでに人々は、慈しみの心や公共心、「自然即吾れ」、「自然即神」のこころを喪失し果ててしまったのであろうか。こういう有様では、とても神の声を、神の教えを聞かせて頂くどころではない。このような者等ばかりを相手にせず、私たちは世俗の汚れを振り払い、心澄まして、こずえを渡る風のさわやかな音にしばし耳を傾け、あるいはまた心楽しく神と語らい合うことに致しましょう。

 颯々と 鳴る松風の ひびき聞け
  神のみ声ぞ 神の教へぞ

 散る桜 降る春雨も 神のわざ
  何れとわかぬ 深きみめぐみ

 さらさらと 流るヽ水 浮む花
  ジッと見つめよ そこに神あり
 
 しみじみと 降る春雨の 音を聴く
  神の言葉も かく聴くものぞ 
 
 春雨は 神のみそぎぞ 神の慈悲
  氏子いとしと 降りそヽぐ雨 

      (『日本神道の秘儀より』掲載)