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神と人のあり方  16  神霊の大稜威(おおみいつ)

神霊というものは「隠り身」(『古事記』)とある如く、無形にましまして姿・形の無い存在であるため、神霊との特別の霊統を有する者にして、しかも正しい霊学に基づく鎮魂法・帰神術の修行に一意専心しない限りは、普通一般人には例え御眷属神といえども、光り輝くエネルギー体そのものの御神霊を直接に自己の魂に感得し得るものではない。真神の御姿や御力、神霊の本質というものについて、幕末・明治の神典学者「本田親徳」翁が弟子に示した学則の中には、「真神」というものについて分かり易く次の如くに述べられている。

即ち、神の黙示は乃ち吾が俯仰観察する宇宙の霊・力・体の三大を以てす。
一、天地の真象を観察して真神の「体」を思考すべし
一、万有の運化の毫差なきを以て真神の「力」を思考すべし
一、活物の心性を覚悟して真神の「霊魂」を思考すべし
以上の活経典有り、真神の真神たる故由を知る。 何ぞ人為の書巻を学習するを用ひむや。
唯不変不易の真鑑実理あるのみ。

と。まさにその通りであって、これについてはこれ以上の説明を要しないであろう。神の道は「天地を以て書籍となし、日月を以て証明となす」という如く、神の大稜威というものは実に明々白々、この天地・日月が明らかに証しているのであるから・・・。

 限りなく 広ごる神の 大天地
  生み出す力 無限無量ぞ

本居宣長が『古事記傳』巻三で、宇宙間の森羅万象は悉くムスヒの霊力によるものと説いたように、この大宇宙の一切を創造された造化の御三神(天御中主大神、高皇産霊神、神皇産霊神)の幽顕かけてのムスヒの働き(生成化育の御活動)は、無始無終に今も絶え間なく続いており、決して止む事がない(この産霊神の活動については拙著「古神道の秘儀」五「産霊の信仰」192頁以下を参照のこと)。

世の中も 又世の人も おしなべて
 神が創りし ものとこそ知れ

此の世のすべては神が御創りになったものだが、私たちはついウカウカとして神々のお恵みの有り難さを念頭から忘れ去り、いつしか当たり前・当然の事として日々を過ごしているものである。何と勿体なくも恐れ多いことであろうか。

輝ける 日の光りをも 月の夜も
 皆神のわざ 神の定めぞ

何億萬里 何億萬里 又その奥も
 皆神の世なるぞ 神のわざなり

現し世に 生けるものとて 皆すべて
 神の息吹の つくりしものぞ

地のめぐり 天のめぐりも 神業じゃ
 これ皆氏子 助けむがため

限りなき 神の情けを 知るものは
 千萬人の 中の一人ぞ

知るみかげ 知らぬみかげと 比ぶれば
 山と小石の 違いあるなり

「これはきっと神の御蔭であろう、有り難いことだ」と、私たちが気付く「みかげ」と、まったく気付いていない「みかげ」と較べたら、小石と山の違いがあるのだと神霊は教えられるのである。ということは、私たちは神のお恵みというものに日頃ほとんど気付いてはいないということになる。

おん礼は 申しても申しても まだ足らぬ
 知らぬみかげの 深さ計れば

食べ物については、誰でも「いただきます」「おごちそうさまでした」と食前食後に手を合わせ感謝してい ることと思う。

食べものは 皆神々の 創りもの
知りて頂く 氏子しあはせ

ところが、自分たちは日頃家の玄関を出ると、大地を踏みしめ歩いて、または車に乗って会社や学校に、或いは目的地に向かい、且つ又帰ってくるのであるが、これまでただの一度として大地に、このみ土に「ああ、神様」と心から深々と御礼申し上げている人が果たして幾人いるであろうか。御礼どころか、大地に唾や痰を吐き掛けて、汚しまくってはいないだろうか。だから運が悪いのである。

踏む土も 流るヽ水も 神の国
 神の姿と 先ずおろがめよ

此の土は 神のみ業の み土なり
 氏子汚すな 心して踏め

平気で天地に唾なんぞを叶きかけて土地の神様を汚していて、幸せになれる者は一人もいないのだと、あなたは知っているだろうか。人は不幸を嘆くが、自分で日々運を落してきたのであり、今ある姿はすべて己が自業自得であり、誰に文句を言うことがあろうか。

神の土地 神の流れに 居りながら
 民の不浄で 宝さへぎる

神の土地 神の流れに 神の海
 皆幸はえは 満ち満ちてあり

また、たとえ牛でも馬でも犬でも猫でも小鳥でも、それらは決してあなたが作ったものではなく、皆神からの預かりものなのであり、従って、決してあなたの勝手には出来ないのである。そうした神からの大切なお預かりものを虐たり苦しめたりしていて、あなたが幸せになど到底なれるものではない。

生きものは 皆神々の 創りもの
 只氏子等は 預かりしもの

世の中の 物皆すべて 神のもの
 御礼申して 氏子使えよ

草も本も、流れる水も、行く雲も、一切は神の息吹きが通うものであると知る人は少ない。

草も木も 流るヽ水も 行く雲も
 神の息吹の かヽらぬはなし

このように、神のその無限のお働き、神の無限の神力というものは、私たちが現に見るこの大宇宙をも遥かに凌駕するものであることを知らねばならぬであろう。人間には到底見えず、聞こえず、触れ得ず、計りがたいものなのである。それを「神などいない」などと愚か者が平気で言うのである。三次元世界に住むものが、四次元以上の世界が果たして分かるものであろうか。第一、方法論からして間違っている。例えば、本田翁は「霊には霊を以て対する」原則を教えておられるが、影にしか過ぎない肉体が、その本体たる霊のことなど分かる訳がないではないか。霊が知りたければ自分が霊になるしかないのであり、それが常識というものであろう。
如何に哲学したからとて、それで神が分かる訳もなく、まして神霊に直接するなどということは断じてないのである。

天地を 揺り動かすぞ 大きなる
 神の息吹が 人に判らぬ

大きなる 神の息吹に 比ぶれば
 あな小さいものぞ 此の天地は

朝なタな 為す事すべて 神のわざ
 神の恵みと 受け取りて行け

明らかに 見る姿こそ いつわりじゃ
 見えぬ姿の 真実を知れ

いつはりの 肉の眼や 肉の耳
 捨て去りてこそ 神現はるゝ

見えぬみかげ 見えぬ姿に 無き声ぞ
 まこと真実 神の働き

(『日本神道の秘儀』より掲載)