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神と人のあり方   15

 主いま 霊魂助ける 修行をさせる
  身体も痛むが 心配要らぬ

 現し世と あの世を通う 神の道
  行ききする身は 霊魂が慕ふ 

「牟田耕蔵」氏の場合は、これまでにも紹介してきたように一般の人々とは異なり、氏が望むと望まざるとに関わらず住吉大神との御縁に基づき、神霊のお導きによって「神の道」を歩むべく修行されられるに到ったわけで、そうした方面の使命を有する御方であったと言ってよかろう。
 世の災い、人々の苦しみの原因というものは、救われず苦しんでいる数多くの霊魂たちが存在するからなのであり、故に大神はこの国の行く末を憂い、国民の苦しむさまを見て、何とかして一刻も早くこの窮状から救い上げたいものとの慈愛深き大御心・悲願を起されたのである。そしてそれを実現するために、縁深い牟田耕蔵氏に白羽の矢をたてられたというわけなのである。

 霊魂等を 救ふてとらせ 霊魂等が
  世の人々を 助けるもとじゃ

 救はれぬ 霊魂は人を 苦しめる
  悟りし霊魂は 人を助ける

従って、「霊魂救済」という誰もが為しえない修行のために、さまざまに御苦労されたのは言うまでもない。「神・仏に仕える」という事は、この世とあの世の両界を行き来する者になるということなのである。
 魂があの世を行き来する時に、神の守りのある者には「霊衣」というか、特殊の「霊光」というか「霊香」というか、そうしたものがあって、救いを求める霊魂たちは目聡くそれをみつけて求め寄り集まり、救ってもらいたいために窮状を訴え必死に縋って来るのである。

 霊魂等に 寄られて痛む 身の痛み
  これも修行の 中の一つじゃ

 疑ふな 病ひでなきぞ 霊魂等が
        助かりたさの 願ひ故なり

 そして、指圧や按摩等をする方ならば理解してもらえると思われるが、まだまだ修行(心の浄化)が足らず、従って守りの薄い(霊力の弱い)最初のうちは、縋ってくる霊魂(死者の霊魂)が、例えば、胃がんで死んだ人ならば胃が痛み出し、事故で足を無くした人なら足が…というように牟田氏の体に映ってきて、死者と同様の箇所が同じく痛む…というわけである。普通にはこれを「受ける」などと言っている。苦しくともこれを己が身(牟田氏)に受けつつ、霊魂に「すでに死んだ」ということや、何故いわゆる地獄に落ちたのか、何故苦しむのかという訳を、幼な子に 教え諭すように懇々と語り聞かせ、悟らせねばならないのである。

 集い来る 霊魂 あまたあり
  恐れてならぬ 助けてとらせ

 吾が身体 痛む苦しむ それも亦
  慈悲の情けぢゃ 徳の一つぢゃ

 身に受けし 他人の不浄や 罪穢れ
  願へ直ちに 祓ってとらす

 慕ひ来る 霊魂を厭と 思ふなよ
  是を助くる 是神の道

 霊魂等を 助ける道は いと難し
  難きが故に 骨も折れるぞ

 牟田氏によって助けられた霊魂たちは、その御礼にと色々なことを氏に教えるわけだが、まだまだその霊魂たちは人間臭を持っており、完全に浄化して堅固な悟りを持つ境地に至った…というわけでは決してなく、佛さまの位にも到っては居ないのである。従って、その教える事は正しかったり、間違ったりするものである。従って、霊魂の言うことをまともに受け止めてあとで恥をかかぬようにしなければならない。世間にはこの程度のレベルのものが人を集めて教団や組織を為したりしてるのだから、何とも呆れてものも言えない。

 霊魂等に 願ひ祈るは とく止めて
  まこと救ひの 神に頼れよ

 みたま等を まことの神と 思うなよ
  指図聞くにも 心して聞け

 善き霊魂 悪しき霊魂の 区別あり
  神つかはせし 霊魂信ぜよ  

 人は弱い生き物である。一切を神仏に委ねた筈の身でありながらも、ついつい自分や家族がこれからどうなっていくのか、人生というお芝居の次の幕場面が知りたくなるものである。
 そしてまた、この先どうなろうと、すべてを神にお任せしておればよいものを、今後どうすりゃいいかとついつい神佛に尋ねたくなり、また指図を仰ごうとするのである。

 さしずをば 仰ぐことをも なからめや
  神に任せし 氏子なりせば
        (『教へと指図は違ふぞ』)

 物聴くな 身の定めをば 聴くことは
  迷ひの元ぞ 神離る元

 神々に もの聞く事は つゝしめよ
  聞きてあやまち 数多きなり

 吾が教へ よく心して 唱ふれば
  正邪の道は 迷はれぬぞや

 悪霊を 身に引き受けて 助くるは
  道の道理に まだ遠きなり

 だんだん修行を積んでくると、一層心が浄化され、霊衣もより厚くなり、神の守りも大きくなってくる。そして人間臭さが希薄になるというか、俗人間との波長の差が大きく開いてくると、未浄化の低い霊魂の波長を直接強く受けなくなって来るものである。そうするとこれまでのように、「受けて痛む・苦しむ」ということもなくなってくるものだ。

 心澄めば 悪霊共は 自ずから
  身に寄らずして 助かり行くぞ

 世の不浄 罪と汚れを 身に受けて
  神の息吹で 吹き祓へかし

 世の罪を 祓うは徳ぞ 神業ぞ
  神の喜び 身に集まるぞ

 足曳の 山の高さも 及ばぬは
  世の罪祓う 人の徳なり

 要は、その人の志が大切であり、心境をより高めること、そして種々の現象にとらわれず、あらゆる現象の奥にある真実を、直感的にサッと見抜く力を養うことが大切である。

 (『日本神道の秘儀』より掲載)