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八、徳・財・幸福  イ、「徳」を積むということ

霊魂等を 助くる功徳 無辺なり
 世の業などは 先づそれからじゃ (一二三一)

 助かりし 霊魂の喜び 皆徳じゃ
 あるじ助ける 徳のみなもと (五九五)

 神習い 神仕へする身に 霊魂寄る
  霊魂助けて 徳を積むのじゃ    (八七八)

 徳積めば 吾が身 吾が家 霊魂等と
  己が子孫も 助かりて行く    (一二〇八)

普通一般のものには不可視の「死者の霊魂」(みたま)を救い上げ、助ける功徳というものは計り知れないものがあり、その積んだ功徳の故に、わが身や家族ばかりか、子孫たちまでもが幸せになれるのだ…と、神霊は徳の偉大さを教えられている。また、神仕えする者や神の道を歩む者には、浮かばれぬ霊魂たちが助けを求めて寄り集まって来るのだ、とも教えておられるのである。
 「徳」と言えば、誰しも直ぐ口に出るのが四書五経の儒教経典の最初にあげられる『易経』「坤為地」の文言の中の次の文章であろう。すなわち「積善の家には必ず余慶有り。積不善の家には必ず余殃有り」と。これによっても、私たち人間が生きる上において、「徳」を積むということが如何に大切なことであるか、ということはほぼ理解されよう。
 では、徳とは一体どんなものかと問われると、「それはこうだ」と明快に答え得る人は少ない。書店で其れに類した書物を手にとって見ればわかるが、どれも曖昧模糊として人間にもともとあるもの?とか人間理性の極致?みたいな、いい加減なことばかりを言ってお茶を濁している始末であり、それらは結局ヒューマニズム(人間主義)の枠から一歩も出ていない。そうした者等の書いた文章や言葉は何の意味も力も無いのだ、ということを私たちは知らねばならない。人間の理性を如何に掘りくり返したところで、そこからは何にも出てくるものではないのである。徳というものがどんなものであるかも分からないままで、誰でもが本当に徳を積めると果たして言えるのかどうか。
 『御神歌集』を見ると、御神霊は次のように教えておられる。

 己が積む 徳は神への 捧げもの
  それで助かる 事と違ふぞ    (四六二)

私たち人間が積む徳は神への捧げものなのであって、徳を積めばそれで直ちに人が助かるとか、幸せになれるなどといった簡単なものではないと言うのである。神霊はその人を助けるために徳を積ませるのであるが、人間が自分勝手に助かりたさに人間智恵で積んだ徳というものが、果たして神霊の目から見て真の徳といえるかどうかはまた別問題なのである。

 積む徳は 形に見えぬ 計られぬ
  神のみ国に 積みしあるなれ    (一二〇七)

 孔門の四科の第一に「徳行」が挙げられているが、『論語』先進第十一の三に「徳行には顔淵・憫子騫・冉伯牛・仲弓」とも称された十哲のひとり「冉伯牛」は、悪疾(癩病を患ったとされる)の悲運に見舞われた人である。伯牛ほどに徳行の優れた男が何ゆえにこのような悪疾にかかるのか…。このような事は決してある筈の無いことであり、孔子にはどうしても信じることが出来なかった。孔子が弟子の伯牛を見舞いに来たとき、伯牛は自分の姿を見られることを憚り、師が室内に入ることを断ったのであった。その時、孔子は窓越しに伯牛の手をしっかと握り「之亡きなり。命なるかな。斯の人にして斯の疾有り。斯の人にして斯の疾有り」(こんなことは有り得ないことである。運命というものなのか。かくまでの徳深き者がかくの如き病に罹ろうとは。これほどの人物がこのような病に罹るとは!)と二度も繰り返し泣き叫んだのである。心中、察するに余りあると言うべきであろう。孔子が徳行第一の伯牛のこの不合理とも不条理ともいえる悲運を如何に深く嘆き悲しんだかが偲ばれるのである。
 このように、徳第一といわれた弟子でさえも悪疾に罹り、かの儒祖「孔子」をして斯くも悩ましめたのであるが、以来孔子はこの世のことは「人間智恵」では駄目であることを悟り、人間の傲慢にしか過ぎないヒューマニズム(人間主義)の危険性を悟ったのである。そして「神意を問う」ということの大切さに気付いて以来、彼は急速に易経に目覚めていったのである。
 儒教の持っている人間主義の危険性に気付いて以来の孔子は実にすばらしい。この『論語』の伯牛の話のように、私たちは徳というものは人間智恵では決して積めないものなのだということを先ず最初に理解し、深く自戒し慎むという心が大切なのではないだろうか。
 『御神歌集』によれば神霊は「徳」について次のように教えている。

 世の罪を 祓うは徳ぞ 神業ぞ
  神の喜び 身に集まるぞ    (二三一)

 苦しめる 人を助ける これ徳じゃ
  神と歩くが これが徳なり   (二五)

 神を心底信じ、世俗の名利の一切を捨てきって、徹底して神界への奉仕者として歩む者は、それだけでも立派に徳と成り得るというのである。また、世の罪を祓い、苦しむ人を助けることもまた徳となると教えている。そして、世の中の徳の一番は親孝行であり、次には親切、哀れみの心であり、兄弟姉妹仲良く目下の者に優しくあれ…と教えは続いている。

 孝行は 世の中の徳の 一番じゃ 
  出世するもと 患はぬもと     (三八一)

 その次の 徳は親切 あはれみじゃ
  兄弟仲よく 下にやさしく     (三八二)

 信心は 徳を積む事 第一じゃ
  徳なき人の そのあわれさよ     (三〇)

 世間の人は自分や一家一門の繁栄ばかりを神仏に祈願するものであるが、信心というものは他人のためにあるのであり、「他人の為に折れ…(徳を積め)」と御神霊は諭しておられるのである。

 身にかえて 命にかえて 宝なり
  徳を磨けよ 徳を積まれよ    (二六)

 徳こそは わが身助ける 宝ぞや
  あゝ何事も 徳が第一        (二九)

 徳積めば 世に恐ろしき ものはなし
  この世ばかりか 又さきの世も    (三一)

 徳あらば 世を渡るにも 気は安し
  徳こそ持つべき わが杖なるぞ    (五三)

 世の中に 目あてになるは 只徳じゃ 
  しっかり見つめて 歩きなされよ    (三八)