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神と人のあり方  12

悪鬼あり よし主をば 悩ますも 
  心澄み行け 悪鬼消え去る   (一二八一)

 心澄めば 神の住居と なる身なり
  など悪鬼邪霊を 気にはかくるぞ  (一二八二)

 「艱難汝を珠にす」「玉磨かざれば光なし」である。障子の桟でも、ただの一日でも掃除しないと埃がたまるように、私たちの心も同じであり、神を祈りながら、日々にこころの曇りを祓い清めて行かなければならない。

 磨き行け 氏子の心 磨きゆけ
  神は待ち入る 神は急ぐぞ    (一六二七)

 磨かずば 朽ちたる玉と 異らず
  光りさし出む よすがとてなし   (一六二八)

 日に夜に 心の曇り 拭き取れよ
  神に願ひて 洗ひ清めよ   (一六二九)

 只管に 神に祈らば 曇りたる 
  心の玉は 光り輝く       (一六三〇)

 曇りたる 心になどて 神や来ん
  磨ける霊(たま)ぞ 神のお住居   (一六三一)

一家の神前に、家族揃っての拝礼を欠かさぬ家は幸いである。神仏の厚い加護を受けるからである。それほど、神祭りは大切なものであり、一家の幸せの元である。そして、真心の祈りは必ず神に届くものである。日々ただ御礼御礼で行くならば、必要なものは神が必ず用立ててくがさるものであり、従って、お願いの祈りなどは不要である、ということが次第に分かってくるものである。

 数々の 形の供え それもよし
 氏子の真心 千萬無量 (一九〇二)

御祭りに お願ひいらぬ 清らけく
 心澄まして 只御礼じゃ     (一九〇三)

 吾が念は 己が念にて 浄まらず
 神の念にて 浄まるものぞ   ( 二一八〇)

 神心 只神心 現し世に
  まことの心 只神心 (二一八一)

 現し世を 動かすものは 神心
 只神心にて 世は動き行く (一一八二)

 神心 修行をはげみ 常日頃
此の世の塵を 祓ひおくべし (二一八三)

 しばらくは 世も末なりと 思う程
 暗き乱れし 世とはなるなり (二一八七)

 この時ぞ 神仕へする 氏子等は
悩まず楽しく はれやかに行く (二一八八)

 〈心の浄化〉の項はこれまでにしておきたい。

 さて、世の中には「対人関係」に悩む人も多いであろう。人は皆一人一人顔が違うように、その考え方も、表現方法も、受け取り方も、反応の仕方も、人それぞれに異なるからである。誰でもが良かれ悪しかれ「自分が考えているように、他人もまたそのように考えている」ものだと思い込みがちであり、そのために種々の問題が生じる。その人のために「良かれ」と思って心からしたことが、逆に相手に怒られたり、うらまれたりでは目も当てられない。こんな時、だれもが「もう、他人とは関わりになるまい。自分のことだけを考えて生きて行こう」という気になるものである。本当に難しいのは人間関係である。しかし、読者の皆様方は折角この『御神歌集』を手にされたのであるから、この際神霊に伺ってみましょう。神は、読者が人様と接する時には、いつも次のような心掛けでおればよいと教えておられる。

 立ち向かう 人は己れの 神なりと 
思はば吾れが 神となり居る   (一七一六)

 立ち向かう 時に拝めよ その人を
 神の心が 吾が心なり       (一七一七)

 四方の人 皆同胞と 親しめば 
世に仇人は 無きものぞかし   (一七一九)

 世のわざも つづめて行けば 世の人の
 心心の なすわざぞかし      (一七二〇)

 先ず拝め 如何なる人も 拝まれて
 神の心に ならぬ人なし      (一七二二)

 立ち向かふ 人皆神と なるならば
 世に争ひは なきものと知れ    (一七二三)

 向ひ合い 拝む心が 神心
 己れの心は 空しくなれよ     (一七二五)

 吾が心 空しくなして 拝むなら
如何なる智恵も その場にて湧く (一七二六)

 神心 即ち神の 智恵のもと
 己れの我をば 先づ捨てる事   (一七二七)

 我に生きて 我をば貫く 人は皆
 皆その我にて 浮かばぬものぞ (一七二八)