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神と人とのあり方 11

斯くも、人間というものはどうしようもないものである。人は平気で嘘をつくし、他人を騙すし、裏切るし…で、恐ろしい生き物である。ところが、神・佛やほとけ様(親・先祖など死者の霊魂)方は決して私たち を裏切らず、それどころか神佛のために費やした費用や時間、真心というものはその何倍にもして必ず返して頂けるものなのである。私たちはいつも「神・佛・仏」のこの三つの柱を大切に大切にしなければならない。私たちは常々、どんな時にも「いつも親身になって助けてくださるのは神・佛様だけ」と思っておらねばならぬ。
真に心に悟りが得られたなら、「業は本来無明なり」ということが分かることであろう。己が造った心の妄想・妄念に振り回され、これまでもがき苦しんで来たのである…。

気にかけな 業は本来 無明なり
心澄むなら 消えて行くなり

さて、以下には「業・因縁」に関しての御神歌を少し抜粋して挙げておきたい。
因縁を 断ち切るすべは こヽにあり
神にたよりて 神になること   (五六一)

心澄み 心澄み切り 神の国へ
来る者のみは 因が切れるぞ   (五六五)

言葉にて 因の破れる ことはなし
心澄むこと    心澄むこと

助かると 言ふは因縁 切れること
神のみ国の ものとなること    (五七五)

ニ、 心の浄化

心澄め 心澄めとて 行をさす
如何なる行も 是が大切

吾が心 すがすがしいと 唱ふれば
悪鬼不浄は 今消え去るぞ    (二〇六)

霊学中興の祖たる本田親徳翁の霊学の教えの基本は、「霊学は心を浄むるをもって基となす」と言う如く、何よりも神霊の嘉し給う「清浄心」をこそ重視する。私心私欲の萌すを「穢れ」と言い、それが行動に顕われるを「罪」であると解しており、この点は拙著『古神道の秘儀』(海鳥社)にも述べておいた。
私たち人間は往々にして、四魂(荒魂・和魂・奇魂・幸魂)の一魂に偏して「道」を失い、肉体の欲望に左右されて罪穢れを重ねるものである。
私たちの常々想うことが、赤子のように純粋無垢な、即ち天授の神そのままの美しいものであれば、決して「穢れ」を生じるということはないが、悲しいかな肉体を持つが故に自我・私利私欲の念が混入し、どうしてもよこしまな心が動いてしまう。そうすると本人の自覚は無くとも、それは直ちに妖魅(邪霊)界に通じ、現象界に実現せずにはおかないのである。心汚れたれば、その人の悪想念の波長に相応し同調する魔物(邪霊)が寄り憑き、その結果として、悪事や病気・事故・災難を招来することになる。故に、「清浄心」を保持するということが私たちにとって如何に大切であるかと言うことは、よくよく知悉しておかねばならないことなのである(人間の作った穢れは、人間の「体」を使って祓われるのが、神界の神則である。但し、雨・風・大の祓いは別)。

「霊魂の穢れ」というものは、「真の祓い」即ち「真の神霊の神気に直接する」ことでしか真の浄めは不可能なのであり、神霊に通じない何ら真の鎮魂力も有せぬ者が為すところの、どこかの宗数団体や世間によくある単なるお祓いやシャクティ・パット?或いは「ハンドパワー」などと称する手かぎしの真似事などでは、いかに何萬・何拾萬円もの高額なお金を払おうとも、せいぜい己が「直霊」を妖魅・邪霊に穢れるのが落であり、重い魂の穢れ(業・因縁)がそうそう簡単に浄められたり祓い落とせる…等といった安易なものでは決してないのだということを知らねばならぬのである。

我に生きて 我をば貫く 人は皆
その我にて 浮かばぬものぞ

神心 即ち神の 智恵のもと
己れの我をば 先づ捨てる事  (一七二七)