清浄心

 では次に、「清々しい心」「清浄心」とは一体どのようなものであるか…ということを知っておく必要があろう。その答えは、真反対の「不浄なこころ」とは何か、ということを考えてみれば、「浄心」がどのようなものであるかは直ちに導き出せると思うのである。すなわち、「不浄な心」とは次のような心を言うのである。

  物慾しや 憎や可愛や ねたましや
   怒る心が すべて不浄ぞ

●不浄とは 争う事 怒る事 悲しむ事 
 悔やむ事 ねたむ事 我情と我慾・取り越し苦労

●すがすがしい心とは 悲しまぬ心 恨まぬ心 心配せぬ心 くよくよせぬ心 ねたまぬ心 争はぬ心一心に神を信ずる心 信ずるとは頼りて任せること

  うらやまし ねたむ心は 不浄なり 
   御礼心が 神の心ぞ

  慾を去れ 人を恨むな ねたむなよ
   心浄らに するはこのこと (九一五)

 今日では、誰も彼も「自分さえよければよい」といった「吾れ良し」の固まりの如くであり、逆に、人や社会のために「たとい我が身はどうなろうとも」といった犠牲心を発揮する人は、まことに少ない現状である。人は皆、くだらぬ己が我情我慾のために折角の人生をむなしく過ごし、自ら身を亡ぼしていくのである。何時の世も、人の「真心」こそが宝なのであるが、神霊はまことの人、心澄み切った清き人間が少ない、と嘆かれるのである。大抵の人は「ああしてください、こうしてください」とご利益を求めての身慾な信仰をしているのであり、「どうか神さまの喜ばれるような清らかな心にならせてください」と祈るような人はめったにはいない。私たちの心が澄んで来れば、祈りも願いもすぐに神のもとに届くというのに。世界の平和や他人様の幸せを心から祈るには一円もお金もかからず、一、二分と要しないにも拘わらず、人は例え一分一秒でも「他人の幸せ」を祈る事はしない。実に浅ましく、嘆かわしいというより他になかろう。

  心澄む 氏子の数は 少なけれ 
   神は悲しむ 神の嘆きぞ

  心澄む 修行が何より 大切ぢや 
   利益求むる 修行はなきぞ (五二二)

  心澄めば 祈りも願ひも その優に
   神のおん手に すぐ届くなり (五二三)

  誠あらば 心おのずと 澄むならん 
   只誠なり 只誠なり  (五二六)

 「心は神明の舎」とはよく言ったもので、神も佛も己が心の波に乗って来られるのであるから、己が心の袋の中に妙な見苦しいガラクタばかり詰め込んでいては、神も佛も入ろうにも入れず、また無理やり入っても、座る場所とてない始末…である。

  心澄めば 神のみ智恵が 入り来る 
   澄めば澄むほど 又はいり来る (五四一)

  身の不浄 心の不浄 犯すなよ
   神・み仏の 慈悲を忘るな (一五四〇)

 『御神歌集』を拝読すると、終始「心を浄めよ」と神霊が仰っていることが分かる。そして又、それが神の教えの大元であるとも。私たちが心の中でフッと思ったことでも神霊はすべて御存知なのであり、この道は隠し事は一切出来ぬお道なのである。

  心浄める それが教への 本元ぢや 
   神の働き 神の願ひじゃ  (七三一)

  氏子等が 思うその場で 神は知る
   心の思ひ 清め清めよ  (七五四)

  慾を捨て 我情を捨てて 人の為
   計ふ時に 己れ助かる

 修行中は、修行者がどの程度の力を持っているかと、つまらぬ邪霊がちょっかいを出すことがある。夜寝ているときに、身体に電流が走ったり、また日中でも、後頭部にズキッと矢が剌さるように邪気を送ったり、妙なことをしきりに考えさせたり、盛んに欲念を起させたりする。そのような時は次の唱え言葉「吾が心スガスガしい」を唱えるとよいのである。
 また、「祓い給え、浄め給え」でも「かんながら たまちはえませ」でも「祓いたまえ」でも「神さま」でもよいから、信念込めて心中で繰り返し唱えることである。
  吾が心 すがすがしいと 唱へかし
   心清まり 身も清まらむ

 妖魅・邪霊というものはまことに卑劣な奴等であり、つまらぬことをまことしやかに語りかけてきて、その人をそそのかすのであるから、決して信じてはならぬ。姿形が見えぬだけで、この世の悪者や詐欺師だちとちっとも変わらぬのである。姿が見えぬだけに余計に質が悪い。彼等にやられると、「普段悪いことが良く思え、逆に良いことが悪く思える」ようになってくるものである。妖魅・邪霊は、その人の弱点を徹底的に突いてきて、人の心を陰に陰にと誘うものであると知っておかれたい。
 だから、いつも自分の心と体を自分でシッカリ守り、何事もない時の自分の身心の状態をよく掴んでおくことである。ほんの僅かの心境の変化も決して見過ごさないように。はじめは如何に心清き教祖でも生活が立ち行くようになって、「やれやれっ」とホッとして油断すると、大抵は慢心の罠に落ちてしまい、それからというもの、最初は微妙に心境が変化し始め、側近の者が「どうもおかしい」と気付く頃には、とっくに当初憑ってきたまことの神霊は離れ去っており、つまらぬ邪霊に好いように操られて、終いには「お告げ」と称しておかしなことばかりを言ったり仕出かしたりするものだ。
        (『日本神道の秘儀より』掲載)