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因果の構造

神を信じ神への信仰に生きて、心素直にひたすら罪穢れの許され祓われんことを祈り、業(ごう)・因縁の清められんことを祈る日々を送る内に、徐々に己が心も浄められ、一つ一つの罪も祓われて、いつの間にか業・因縁も軽減して頂けるようになってくるのである。

深き業 深き罪とて 恐るるな
神に祈りて これを消し去れ (1517)

念作り 念の固めし 業なれば
念を捨て去り 神にすがれよ  (1470)

宏大無辺 神の力で 業などは
唯今此処で 拭ひ消し去る   (1472)

此の事を 固く信じて よく祈れ
祈る念こそ 業破るもと    (1473)

何事も 神に任せて 気は安し
憂い悲しみ 心配はなし     (190)

心して 誠の道を 歩けかし
不幸災難 すべて消えゆく (255)
災難を 逃るる道は 只一つ
神に任せて 罪祓うこと (320)

「信じる」ということが如何に偉大な力を生むものかを知る人は少ないが、「此処一番」というとき、いざと言うときに、この「信」の一文字が人の「運命を分ける」ものなのである。だから、真に助かりたいと思うなら、「信」の一文字に賭けることである。「信じる」とは何処までも正しき神を信じてそれに任せきるということ、「信じてまかれる」ということなのであるが、これが簡単なようで現代人には大変難しいらしい。これは信心の極意といっても過言ではないのである。大抵の者は神仏を信仰して折角「救いの船」に乗っていながら、いざ嵐となると浅はかにも人間心を出して、慌てて自ら怒涛逆巻く大海に飛び降りて命を落とすものだからである。

神様の 救ひのつなを 断ち切るは
氏子氏子の 積みたる業ぞ (757)

業を消す 只まごころの 祈りのみ
口念仏では 消えはせぬぞや   (767)

神仏を疑って、神仏があるかないかなどといった安易な気持ちで神仏のお力添えを頂こうとしても、それは御無礼と言うものである。神仏が「そうか、そこまでこの私を信じてすがるか」と、感じて動いて頂ける位までの熱意と真心が届けば、神仏は必ず私たちを良くして頂けるものである。神佛は、けっして私たちをお見捨てにはならないということである。

此の世でも 心澄み切る 人ならば
この世で因が 断ち切れるぞよ (566)

心清め 心澄みなむ その時は
濁れる業が 澄み渡る時    (1520)

そして、救いに浴した時には、必ず感謝の真心を忘れてはなるまい。分かり易く例えれば、二十一日間祈願したならば、例え一日でも多く、二十二日間の御礼報謝の祈りを欠かさず行うこと…などである。
大抵の者はこの時、その者の真価が問われるのではなかろうか。家族の生命にも関わる大事の時に、「助けてくださったら、どんなことでもします」などと、自分の命も要らないような事を平気で言っては神仏を拝み倒して?おきながら、いざ助けてもらうと、今度は「そんなことあったかいな」位の調子でシャーシャーとして厚かましいというか、恩知らずのふてぶてしい者が多いのである。中には助けられた大恩を忘れて、「後足で泥をかけて行く…」というような卑劣な者さえ居るのであるから、神仏も大変なご苦労であるとつくづく思わされる。このような者は必ず、後で以前にも増して散々な目に遭うこと間違いなしである。なぜなら、神仏はちゃんと見ておられるからである。人は騙せても神仏をだますことは決して出来ないのである。