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神と人のあり方   7

○ 現し世の 人の嘆きは いと軽し
御霊の嘆きは 底はかられぬ  (八七七)

みたま等に 供えてたもれ 食べものを
皆あの世にて やしないとなる    (二七四)

霊魂等は 世に在る如く 祭るべし
殊に浮かばぬ 霊魂等は尚    (一一六〇)

死んで肉体が無くなってしまえば、遺族はつい居なくなった者に対してはウカウカとして生前の態度を忘れ、故人への礼儀を欠くものである。親が苦労して残した土地・家屋や多少の遺産を、浅ましくも愚かな子等が兄弟姉妹の醜い争いまでして吾がものにしておきながら、何故に大恩ある親様の霊魂に対して、日々に心からの感謝と弔いを与えようとはしないのか。幼いときから春秋のお彼岸やお盆、親・先祖の祥月命日、また年忌年回の折にはお寺や御仏壇で線香を焚き合掌し、あるいは祖父・祖母や親たちに連れられてお墓参りに行った、あのなつかしい日々を、一体どこに忘れ去ってしまったというのか…。

心より 言魂いとしと 思ふ人
神は嘆くぞ その少きを      (八三七)

霊魂等を 助くる事は 只管に
心尽して 祈る事なり     (一四三六)

○ まごころの 祈りに勝る 供養なし
物と心を 二つ供へよ    (一一六二)

神に祈り 仏に願へ 霊魂等の
肋かるためと 心尽して     (一四三七)

御先祖の 霊魂供養を 怠らず
神・み仏に よく祈りなせ     (一五四一)

尤もこうした親・先祖への非礼も、霊魂救済が専門である筈の肝心の僧侶たちが、「御仏に仕える」ということの真の意味を知らず、また霊魂のことに関してまったく無知で、日頃の命懸けの「行」無き為に、肝心要の「みたまを救う力」を持たず、誰一人としてその故人の霊的状況を幽観し得る者(プロ)が居ないのであってみれば、致し方のないことかも知れぬ。
本来、仏教は神霊や霊魂の実在について否定するものであれば、尚更の事であると言えよう。
斯様に、常日頃一家の親・先祖の霊魂の有様について懇々と注意し諭してくれるような、幽顕を見通す御徳を戴く者(霊知り)が身の回りに捜しても一人も居ない現状であってみれば、一般人のほとんどが、正しい霊的知識がなくとも至極当然の事である、…と言ってしまえばそれ迄であるが…。

○ 吾が国の みたまの様が 目に見ゆる
もの少きが 神の嘆きぞ      (八四〇)

いらか高く 構へし憎の つとめとは
それ等霊魂を 先ず救うこと  (八二六)

空高く そびゆる塔は 何のため
霊魂救はむ 塔ではなきか   (八二七)

世の人に 誇らむ為と 間違ゆる
五重の塔の いはれ知らずに    (八二八)

霊魂等を 慰むるため 塔の下
日々に開けよ 供養の庭を    (八二九)

子孫の手厚い慰霊・供養を受けられない哀れな死者のみたまが、苦しみのあまりに、己れの悲しむべき状況を気付いてもらおうと、必死に家族に救いを求めすがってくるのであるが、遺族は誰もそのメッセージに気が付かない。「気付き」がないと余計にそれがひどくなり、しまいに霊魂が非常手段に訴えてくると、それは病気・事故・災難といった形で此の世に現象化してくる。死者がその家族の可愛い子や孫まで使って様々に知らせていても、それでも、まさかそれが霊魂の救済を求める悲痛な叫びなのだ、とは全然気付かない…というのであればどうにも救われようが無い。
その結果は、再び己れや家族が思わぬ病気や事故、災難、あるいはリストラや事業の倒産などに見舞われる等といった惨憺たる情況が待っているのであり、そうして初めて「これは何かあるのではなかろうか」と思い始めるのであるが、時すでに遅しで、今度は容易なことではそれまでの親不孝を許してはもらえない。

救われぬ 霊魂は人を 苦しめる
悟りし霊魂は 人を肋ける     (ハ一一)

世の障り 人の嘆きは みな共に
みたまと人の 汚れより来る     (三一九)

○ 疑ふな 病ひでなきぞ 霊魂等が
助かりたさの 願ひ故なり    (八一八)

人は生きていればこそ、「道を求める心」さえあれば、その道に精通した有徳の師にも出会い、且つ教えを乞うことも十分可能なのであり、而して自分次第で幾らでも心を磨き、霊魂の向上を図ることが出来るものである。
だが、一度「霊籍」をあの世の一定の境域に移し替えられてしまうと、そこから逃れようにも、自分ではどうしようも致し方なく、積年の行により、神仏からのお徳を頂いた修行者か、その子孫の真心込めての手厚い慰霊(神)・供養(佛)無しには容易に救われ難いものなのである。

○ 現し世の 人の助けを 借らずして
あの世の霊魂 浮び難きぞ    (六三四)

こうした私たちが此の世を生きる上に最も大切な、且つ人として最低限知っておくべき基本的事柄が、いつの間にやら日々の生活習慣の中からスッポリと抜け落ちてしまった、というのは一体誰の仕業なのであろうか。この点につき読者にはシッカリ考えて頂きたいものである。
自分の親・先祖の霊魂たちが落ちて嘆き苦しんでいるというのに、私たちだけが此の世で幸せに笑って暮らせるなんてことは断じて無いのだ…ということを身に染みて知って欲しいと切に願う。
さて、「霊魂の問題」・「霊魂の慰霊・供養」は、以上見てきたように、私たちの普段の生活にも色濃く影響を及ぼしている非常に大切な事柄であるから、以下には『御神歌集』の中から、参考として「霊魂」に関する教えを出来得る限り抜粋し、読者に呈示しておきたい。御神霊が一首一首に込められたその切なる想いを、どうか読者に分って頂きたいものである(親・先祖の霊魂供養こそが一切の苦悩からの開放であり幸せの元である)。
人の世と みたまの世とは 共にあり
人とみたまと 又ともに在り    (二一四)

みたま等を まことの神と 思うなよ
指図聞くにも 心して聞け    (四四一)

善き霊魂 悪しき霊魂の 区別あり
神つかはせし 霊魂信ぜよ      (四四二)

霊魂等が 己が己がと かゝる時
氏子危い よく心せよ        (四四三)

よき霊 あしき霊は 神のみぞ
これを知るなり よく悟れかし     (四四四)

うつし世の 人が霊魂を さばくなど
世に言うことは おろかしきこと    (四四五)

(『日本神道の秘儀』より掲載)

◎ 著者略歴
渡辺勝義(わたなべかつよし)
昭和十九年生まれ。國學院大学大学院・九州大学大学院博士課程修了。文学博士
現職 長崎ウエスレヤン大学教授・(財)大阪國學院神職養成通信教育部講師。
著書 『古神道の秘儀』、『鎮魂祭の研究』、『日本神道の秘儀』