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神と人のあり方 6                           文学博士 渡辺 勝義
『御神歌集』にみる神と人のあり方

平成20年9月 社報やまもも第42号より
因果の構造  | 業のメカニズム | 
○ この世をば いとま申さむ その時に
   罪のお土産 持つは禁物

さて、ある日ある時突然にやってくる一陣の春の嵐に遭遇した時、それまで必死に追い求め苦労して手に入れた此の世の富や宝や名誉・地位などは、風に舞う木の葉のように一瞬の内にむなしく吹き払われ、満開の花は散り失せて、それまでの栄華が如何にはかない夢のようなものであったかに、私たちは否応無しに気付かせられるものである。

   里人は 花に酔ひたり 己がじし 
   たはむれ遊び 興はつきざり   (二一九五)

  この如し 浮世のひまの 一時を
   己が愉楽に 日を送るもの   (二一九六)

  一じんの 春の夜嵐 吹き来る
   波も高まる 花は散りゆく   (二一九七)
  
  散る花を 惜しめど 既に甲斐はなし
   波立つ池の 面は濁りぬ     (二一九八)

  人は知らず 生死は神の み手にあり
   只言はまくは 心安かれ    (二二六六)

 人間死後は誰でも、どうにか立派な葬式を出して貰うまでの事くらいは出来得るかもしれないが、死後はまるで生ごみを出した後のようにスッカリ忘れ去られ、誰からも思い出しも見向きもしてもらえない…というのも、サッパリとはしているが少々寂しい気もする。その人の人生がどうであったかということについて、あれこれと心無き者等の口の端に乗ることもあるが、その人の霊魂があの世でどのような境涯に居るかを霊的に見定め得る者でもない限り、それは誰にも判り得ないことである。

○ 死ぬ迄は よしあし事は 分らぬぞ
   神のみ国で 初めて判る

誰にとっても、二度とはない掛け替えのない尊い人生、惜しんで余りある生命の日々でありますから、お互いに出来るだけ悔いのない人生であるように心がけ、一日一日を共々大切に、大切に生かさせて頂きたいと切に願うものである。


ロ、先祖(霊魂=みたま)供養の大切さ


○ 忘るなよ はかなきものは みまかりし
   み祖の魂の 迷う行方くゑぞ

 「人身受け難し、吾れすでに受く…」とは仏典の冒頭の文句であるが、私たちは蝉や蚊やハエ、トンボに生まれていても決して不思議ではなかった。その自分が人間として此の世に生まれさせて頂けたというだけでも、これ奇跡と言わずして一体何というべきであろうか。私たちは、まず第一に、此の世に人として生まれ得た、ということを深く深く感謝すべきではないのか…と教えているのである。

 道端の石ころや木の股から生まれ出た者でもない限り、人は誰もその生命の元である親(父母)を持ち、その親もまたそれぞれに生み育ててくれた親(祖父母)があり…と、数えて行くと曽祖父母まででも、あなたには、計十四人の生命の源(親・先祖)が居る訳であり、更に二十代前まで遡って己が血を受け継いだ先祖の教を数えますと、二百万人以上にもなってしまう。その代々継承してきた血の繋がりの赤い糸の何処か一箇所でも切れていたら、今のあなたは決して此世に存在しなかったのである。精子と卵子の結びつき無しには受精卵も出来ず、生命の誕生は有り得ない、というのがこの自然界の摂理(法則)だからである。私たちの身体を構成する何十兆もの細胞、その一つ一つの細胞の核にある遺伝子には、天文学的な数の先祖たちの過去の生き様が記録され、現在まで伝えられて来ているのであり、言い換えれば、私たちは「先祖の生命を生きている」のであり、パウロ(「吾れ生きるにあらず、キリスト吾が内に生きるなり」─ガラテヤの信徒への手紙)流の言い方をすれば「吾れ生きるにあらず、先祖吾が内に生きるなり」と知るべきである。

 そう考えてみると、この「身体」、この「生命」は自分のものであって自分のものではなく、生命の親・先祖の意向を無視して手前勝手に使ってよい…というものでは決してないのである。私たちは、まず第一に、こうして人として生を得、生きていることを神・仏はじめ己れの生命の元である親・先祖に心から感謝し、その大恩に報いることを心掛けなければならない。
 当たり前のことながら、花も木も根に水をやらねば枯れてしまう如く、幸せになりたいのなら、先ず自分の生命の元である親・先祖という根っこに水をやる(喜ばし慰める─慰霊・供養)、ということが大切な事となってくるのである。こうした人としての当然の且つ当たり前の行為は決して宗教とは言わず、宗教以前の、人として極々当たり前の常識なのであるが、今日その当たり前のことが全く分からない。それほどまでに現代人は、日本人としての霊性が鈍化し麻疹して無知の極に居り、獣同様の生活をしていながら、それに一向に気が付かないで居るのである。自分の生命を此の世に生み出し育ててくれた親・先祖に感謝し孝養を尽くす…という、人として当たり前の行為、最低限の常識さえも欠如しておれば、己れやその家族が此の世を「当たり前では通れない」というのも決して不思議なこととは思えないのである。例えば一例として「親・先祖の御霊への供養」が不足すると、死者のみたま達がその苦しみを分かって欲しいためにわたし達への要求・メッーセージとしてまずはじめに「胸」にその知らせが出て、可愛いい幼児が気管支喘息にかかるとか、私達大人でも風邪でもないのにしきりに咳が出だしたり、いつまでも咳き込んで治らない…などの現象が直ちに現れてくるのである。
 良識ある読者の方々には、どうかこの点を御理解頂き、また心ある方々に伝えて頂きたい。そうしなければ、此の儘ではこの日本が滅びてしまいます。

○ 浮ばれぬ 霊魂集めて 供養せよ
   これがわが家の 栄えの元ぞ

○ 吾が幸を わが求むるは 誤りぞ
   先祖助けよ 人を助けよ

  助けられ 喜ぶ念の 働きが
  吾が身に来てぞ 吾が幸となる  (一六一五)
 
 「親孝行」即ち己れの親・先祖を喜ばすことは、他に頼らず「自分自らが真心込めてやる」ことが最も道に叶い、且つ親・先祖も喜ばれるのである。これは何らかの宗教団体や組織に入らなければ出来ない、ということでは決してない。むしろそうしたところに依存すると、逆に食い物にされ、そこから抜け出せなくなって、とんでもないひどい目に遭ってしまう恐れなしとせずである。
 本書は、己れが他に依存する道・己れの魂を売り飛ばすが如き弱々しい他人任せの道を説かせて頂いているのではない。むしろそうしたことを止めよと説いているのである。誰もが神の摂理というものを真に理解し、神の真理を深く悟って、自立する智恵と力を養い、勇気を持って自分の足で立ち上がり、自分の与えられた道を自身の力で力強く歩いて行く道を説かせて頂いているのである。

○ 業深き 霊魂の姿 なさけなや
   現世の務め 怠りしもの

 高額な葬式代や戒名料を払って身内の葬儀も一段落し、家族を失った悲しみはいつまでも残るけれども、どうにかやっと落ち着き、「やれやれ、これで故人もきっと天国か極楽世界の良い所に行ったことだろう」と安堵し、ホッと胸を撫で下ろす遺族たち…。果して「人は死んだらそれですべて終り…」というのであれば、まったく問題はない。ところが実際にはそうは行かないのである。肝心の死者の霊魂はどうか…というと、棺桶に入棺する時に着せた死装束はボロボロに破れ、草履は擦り切れ、そして一杯のお茶さえも飲めず、食べるものさえ無く痩せ衰えて、木枯らし吹き荒ぶ中、未だに己れが死んだことも知らず、暖かく迎えてくれる者もなく、死者の往くべき所も知らずして、家路の門はすでに閉され、為すすべもなく家の軒下で寒さに震えながら膝を抱えてうずくまり、そのあまりの辛さに泣いているのである。これは決して他人事などではなく、実はあなたの家の今は亡き愛する親や家族(身内)の見るも哀れな無残な霊魂の姿なのである。

○ 佛では 地獄の例へで 教ゆなり
   此の世を仇に 過せし霊魂

  寄り集う 霊魂の様を 見せばやな
   この世の徳の こと思はるる    (六六二)
 〈此の世で徳を積まねば霊魂となって苦しみますぞ〉

 当然の事ながら、生きている内に道を求めることもなく、己が心の中に天国(極楽)を築き得なかった者が、死後、天国に安住するなどといった事は無きことである。霊界での長い長い生活に較べたら、短い此の世の苦労など物の数ではなく、それこそ現世の苦しみの何十、何百倍もの苦痛を味わうことになるのである。


       (『日本神道の秘儀』より掲載)
神と人のあり方 5                           文学博士 渡辺 勝義
『御神歌集』にみる神と人のあり方

平成20年6月 社報やまもも第41号より
因果の構造  | 業のメカニズム | 
○ 此の世にて 修行怠る 霊(みたま)たち 
   その有様を 見せてやりたや  (三九三)

   さきの世と この世の永さ 比ぶれば
    千萬年と 火花散る間ぞ   (二四二)

人はたかだか八十年から百年そこそこの人生であるというのに、自己の本体たる心や魂を立派に磨き上げ完成させる、という第一義的なことを喪失して、誰もが金銭や物資、学歴、名誉、地位、権力を得んがために、死後に持ってはいけない第二義的なものばかりに囚われ、それこそ、死に物狂いで駆けずり回っているのである。「徳を積む」どころか、親・先祖からの罪や不徳の上塗りを重ねるばかりの人生であってみれば、人としての尊厳など在ったものではなく、実に愚かというしかない。人は誰も、此の世での自分の家を建てることには必死になっても、死んだ先の「あの世の住まい」については、爪の先ほども考えてみたことはないのである。

   現し世の 事も大切 さり乍ら
    吾が行く先の 家が大切   (一九三五)

 「ひと」は「霊止」とも「霊処」とも表記される如く、誰しも、生まれ乍らに、己が身の内の臍下丹田(気海丹田)という肝所に「神授の霊魂」が宿っているのであるが、それを知る者さえ居ない。神はそうした無知な者にも、等しく救いの御手を差し伸べておられ、人がこの世に生まれ出た真の目的・意義を知らしめんがためには、「病い」という方法でもって、覚醒を促されることもあるという訳である。

   病ひをば 因縁のみと かたづける
    氏子誤り その奥を知れ    (五五九)

○ 病ひとて ただうかうかと 考へな 
   深き計らい その中に知れ  (一四八五)

 肉体人間の己れは病いで苫しんでいようが、自己の本体である吾が霊魂は、「これで少しは修行ができて人間が磨かれるかも知れない」、と喜んでいるということもあるのである。
 では私たちは病いを得た時に一体どうすればよいのか、またどうすれば病いに煩わされずに済むのであろうか。

○ 病起らば 先ず念ずべし 神・仏
   霊魂供養ぞ 念を洗えよ  (二〇〇四)

 病いを得たらば、まず第一に、己が不徳を神仏に心底お詫び申し上げ、許しを乞うと共に、一日も早く病いが癒されんことを祈ることである。その際にも、己が心を正して為すべきであり、むさ苦しい心のままであっては聞き届けはない、と知っておくべきである。

   神により 造れる肉の 衣なり
    神の力で 如何様にもなる  (一四七六)

   病あらは 病を消して 念ずべし
    まがごとあらば 又同じきぞ (一八〇五)

   病なほす 力は神の 力なり
    氏子の力と 慢心するな    (七二八)

 次には、己れの生命の源である親・先祖の霊魂に対して、これまで見向きもせずに放置してきた自分の日頃の親不幸を深くお詫びし、心から懺悔して、真心込めての霊魂供養を日々におこなうことである。

○ 業を消す 只まごころの 祈りのみ
   口念仏では 消えはせぬぞや  (七六七)

 この御神歌のように、嫌々ながら仕方なく為す口念仏くらいで、これまで放置されて無縁仏の境涯に堕ちた親・先祖の苦しみが直ちに癒されて、極楽世界に登らせて頂く栄誉に浴したり、或いは他人や社会を困らせ、苦しめ続けてきたこれまでの己れの重い罪がそうそう安易に許され、救われると言うものでは決してない。私たちは、苦しめられた人々の怨嗟の念を受けながら、何事もなく平気で生きてゆける、などということは断じてないのだということを、肝に銘じて知っておくべきである。此の世に偶然は一つもなく、己が身の周りに起こる事には全て意味があるのだということを、私たちは知らなければならない。「蒔かぬ種は決して生えない」のである。

   病なく 又まが事も 消え去るぞ
    家内集ひて 霊魂祭れば   (一八六一)

   霊祭り こよなき事ぞ 此の家の 
    栄ゆる基 病なきもと    (一八六二)

   共々に 此の世の者も 霊等も 
    助かる事ぞ このみ祭りは  (一八六三)

 そしてこれまでも述べてきたように、一刻も早く己れの心の大掃除をして、真人間に立ち返り、いつも神が御嘉納になる心、即ち「清浄心」「清明心」を保持するように努めることてある。
 こうして「人が病む」ということの訳を深く悟れば、「人間、本来病いなし」ということも分かってこようというものである。

   まがごとも 病も世には 無しと知れ 
    あると思ふが 生み出だすもと (一八○六)

   誠あらば 病ひ災難 逃げて行く
    誠の光で 闇は消えゆく    (五三一)

   心して 誠の道を 歩けかし 
    不幸災難 すべて消え行く   (二五五)

○ 悩むなよ 悩む病は 世にはなし
   皆吾が魂の 昇るもとなり  (一四八二)

 私たちは、いかに「まこと心」が大切であるかをシッカリと知っておく必要がある。この「まこと心」の有り無しが「人の運命を分けるのだ」、ということを身に沁みて知っていただきたいものである。玲瓏水月の如き清澄極まりない神授の魂を、己が不浄な人間心つまり「怒り・悲しみ・恨み・ねたみ・そしり…」等の心を起こして穢し汚してしまっては、実に勿体無い事であり、且つまた、神仏や親・先祖の霊魂に対して、まことに申し訳の無いことである。
 そうして天地の恵みというものがひしひしと分かってきたなら、天地一切のものへの感謝を、また、日々の食べ物に対してさえも、心からの感謝の心を忘れてはなるまい。
 
○ 神々の 賜物なりと よく悟れ
   一粒の米 一滴の水   (二六九)

   食べ物を 不浄になすな 氏子等よ
    すべて病の 元となるぞや   (二七三)

   食べ物に おん礼申す 氏子なら
    胃腸の病ひ あるべきもなし  (二七一)

 人は誰でも、いつかはこの世におさらばして、己が霊魂の故郷へ帰ることになるが、こうして生命の源である「神・佛・ほとけ(親・先祖の霊魂)」の三つの柱を畏敬し大切にして、この世の務めを全うして生きて来た者が死に向かう時は、これは神の計らいであって病いとは言わないのである。

   神召して 霊魂をあの世へ 取る時は
    病ではなし これは計らい   (一一五大)

   業を清め あの世へ送る 神の慈悲
    よく悟れかし これがみとりぢゃ  (一八四九)

○ 徳積みし 霊魂の様の 心地よさ 
   神の御手に 召されし姿   (六六三)

 生死は神仏の御手にあるものであるからには、一切を素直に神仏にお任せして、命ある限りは正しくそして懸命に生き、そしてあの世からのお迎えの時がきたら、意気揚々と氏神・産土神や御本尊さま、そして多くの親先祖のみたま方のもとにまいりましよう。そして、「私の一生は決して十全ではなかったかもしれませんが、自分なりに正しいと信じた道を一生懸命に生きてきたつもりです」と申し上げたいものです。霊界の何処に住むことになろうと、それはすべて自業自得なのであれば、あわてず騒がず、甘んじて受け入れるしかない…、そういう覚悟で、お互いにこれからの大切な日々を過つことなく、大切に大切に生きてまいりお迎えがきた其の時に、私たちがあの世で喜びと感謝とをもって迎えられるか、或いは厳しく叱声を受けるかは、これからの私たちの生き方次第…なのであります。

 人間である以上は、誰であっても若気の至りで失敗したり、愚行をしでかしたり、また恥ずかしい思い出や後悔する事も一度ならずあるものだが、自己の愚かさに気付き、深い反省の出来たものから、ニ度と罪や不徳を重ねることのないように心に誓い、少しでも世のため人のために尽くして、できうる限り良いお土産を持ち帰りたいものである。

   氏子やがて 肉の衣を ぬがむ時 
    何をあの世へ お土産とする  (五〇九)

   神仕へ 徳を積みたる 氏子こそ 
    あの世への土産 この上もなし  (五一〇)

   土産もつ 氏子はあの世の 神様へ
    いと晴れやかに 御挨拶する  (五一一)
 
 この世で如何に隠そうとも、善悪共々私たちの生前の行為は、その一切を神霊はご存知なのであり、故に一昔前の人は老子の「天網恢恢疎にして漏らさず」の教えの如く、人の見ていないところでも言動の正しきを守り通したものである。が、今の世の人々は隠れたところでは何をしでかすものやら、全く油断のならない状況にあると言える。  
   

       (『日本神道の秘儀』より掲載)



神と人のあり方 4                           文学博士 渡辺 勝義
『御神歌集』にみる神と人のあり方

平成20年3月 社報やまもも第40号より
因果の構造  | 業のメカニズム | イ.「病ひ」の理由
  
   現し世の 数ある悩み その中で 
   病ひの悩みぞ いとも多かり (一九九八)

 目に小さなゴミが入っても、指先にトゲが剌さってさえ、虫歯が疼いてさえ難渋する私たち。まして頭痛や腹痛、不眠症、心の病い、不治の病い…と、数え上げだしたら限りがないほど実に様々な病いに侵されて、世の人々は懊悩しているものである。人は病いを得た時には、流石に「何事もない…」ということがどんなに有り難いことであるか、ということを身に沁みて切実に感じるものであるが、何事もないうちにこそ、「健康である」ということがどんなに有り難い事であるかを少しは神仏や親・先祖に感謝して欲しいものである。
 「神仏の御守護があっての吾が身の健康である」…ということなど、常日頃誰もが思っても見たこともない。それなしには、例え八十路の坂も越え難いのだということを、果して幾人か知る人があろう。

 肉の病ひ 肉の病ひと 考へる 
   その大本の 事を見ずして (一一四八)

 大本の 事をきはめで 只くすし 
   薬り求むる これは愚かじゃ(一一五〇)

 病気に罹った時、「何故、私がどうして…」と、人はその訳を考えてみようとはせず、直ぐに病院だ、医者だ、薬だと慌て回るものであるが、神霊はそのような時に次のように数えておられる。

 病あらば 先ず祈れかし 頼めかし
   此の世のくすしは それからの後(三二一)

 病ひ起り 不幸・災難 ある時に 
  まず省りみよ 己が心を(五三〇)

 病ひとは 神があたえし ものならず
   己が不浄が 招きよせけり(一八四)

 病を得た時、やれ医者だ薬だと騒がずに、まず己れの日頃の言動や心のあり方がどうであったかを自身に問うてみよ…と神はいわれるのである。

 身の病ひ 不幸・災難 ある氏子
   これ皆心 浄まらぬため (二五四)

 身の病ひ 心の病 不自由は 
   心のこりが とれぬ為なり( 一五〇八)

 毒矢をば 放つ念力 あるならば 
   そはかえり来て 吾が身射るなり(六七九)

 毒矢とは 怒り・悲しみ 恨みとそねみ
   くやむ心と ひがむ心じゃ (六八一)

 腹立てば 心の鏡 曇るなり
   己が苦しみ 神の嘆きぢゃ (一四一九)

 例えば誰かを恨んだり、ねたんだり、辱めたり、嫉んだり、虐めたり、人を困らせ苦しめたりしたことはなかったか、我が儘や強情を通して、他人の言うことに逆らってばかりいなかったか、仕事や食べ物に、感謝どころか不足ばかり言っていなかったか、誰かと諍い合って怒りを発しなかったか、いつもイライラしていなかったか、済んでしまった事をいつまでもくよくよ思い煩っていなかったか、まだ起こってもいない先の事をあれこれ心配していなかったか…など等、人としてのあり方・人の道に反する心の状態・言動をしなかったかと自分を振り返って見ればよい。そうすれば大抵は、「ああ、あれがいけなかったのだな」と誰もが心に納得がいく筈である。人はだれでも頭を冷やして胸に手を当てて考えれば、己が身の内に存する吾が魂(一霊・直霊・顧霊)の働きによって、「反省」という尊い宝を頂くことが出来るようにできているのである。
 そして「ああ、あれがいけなかったのだな…」と心にハッと悟るところがあれば、まず神に心から素直にお詫びして、その許されんことを祈り、其の後に医者や薬を求めよ、と神は言われるのである。

 神造り 人に与えし くすりなり 
   心 心で 効きめかわるぞ (三二四)

 それでもどうしても病いを得る理由が分からない…とか、生まれながらに病いを得る人もこの世にはいる訳で、「私には、我が家には何んにも理由が思い当たらない」と言われる御仁もあろう。
 だが神智に依らずして、人智でそのすべてが分かる筈もないのである。
 当然の事ながら、業・因縁病というものはレントゲンや、CTスキャン、あるいはMRI等には決して写るものではなく、また聴診器で聞き取れるというものでもない。

 身の病ひ 定めありける 業なるぞ
   神のみ業が これを消し去る (三七九)

 病ひとは 数々元が あるなれば
   神のみ之を 極め知るなり (一四七八)

 病の元 神業ならで 知られぬぞ
   神のみ智恵を 授からぬでは (一一五二)

 神の智恵 なくては病 助からぬ
   凡夫の智恵は 限りあるなり (一一五五)

 元の元 知らで病が 見えなんや
   元を正して 後薬師なり  (一四七九)

 とはいえ、それだけでは心が落ち着かぬという人もあるであろう。本当に「病いの理由」というものがあるならば、人はそれをどうしても知りたいものだからである。

 病とは 業と悪鬼と 身の不浄 
   心の不浄 神の計らい

 一口に病いを得ると言っても、その原因はとなると実にさまざまであり、本人ないしはその親、あるいは先祖からの悪業や重い罪による場合があり、また悪鬼・邪霊による病いの場合もあり、あるいはまた神が計らう病いさえもあるのだ…と神霊は教えるのである。

 身の病 家の病は 皆共に 
   つもる悪業 それが基じゃ

 吾が積みし 業ぞ病が 起るもと
   道とは業を 取り去るすべぞ (二〇〇二)

 病とて 神の計ふ こともある
   氏子助かる もととなりなば (五五三)

 人は先づ 吾が智恵のみで 計らずに
   その奥を知れ 病大切 (一四八四)

 「病ひを措いて山中なし」とよく言われる。人は病気したり、医者から「よく持ってもあと半年の命」などと宣告されると、それまで強がっていたどんな者もたちまち意気消沈して、かっての勢いは何処へやら、情けないほどに見る影もなくなるものであり、そうしてはじめて、「生命の尊さ」や「生きる」ということの真の意味を探り始めるものである。
 斯様に、「病いを得る」ということはどんな深山幽谷での荒行にもまさる真の心磨きの修行が出来るのだ…という意味である。

 病ひとて 吾が魂之を 喜ぶぞ 
   得難き修行 之でなすなり

 私たち人間は、ただ肉体のみで成り立っているのではない。仏者が説くように、死んだらそれで終り…というのであれば、何も高額なお金をかけて僧侶を呼んで葬式を出したり、戒名料を払う必要もなく、また、お墓や仏壇などを買う必要もなければ、春秋の彼岸の墓参りやお盆の施餓鬼供養、故人の祥月命日や年忌供養など、貴重な金と時間を費やしてする必要もない。それらはどこかの道楽者か、そうした趣味を持った人間が、暇に任せて、己がふところ具合と相談しながら、好きにやればよい筈の態のものである。私たちは、死んだらそれで己がこの世の生き様や所業のすべてがスッカリ精算されて終わり…というのであればどんなにスッキリとすることか。
 ところが事はそうそう簡単には済まないのである。

       (『日本神道の秘儀』より掲載)



神と人のあり方 3                           文学博士 渡辺 勝義
『御神歌集』にみる神と人のあり方

平成19年12月 社報やまもも第39号より
因果の構造  | 業のメカニズム |
  
  病ひ起り 不幸・災難 ある時に 
    まず省みよ 己が心を

 日々何事もなく、いつまでも健康で幸せでありたい…とはだれしもが願うことである。だが、「さあこれから」という時に限って思わぬ出来事が発生し、何事も順調であるかに見える幸福の絶頂期に、思いがけぬ病の宣告を受けたり、あるいは家族の事故・災難に遭遇し、昨日までの幸せはどこへやら、塗炭の苦しみを味わう…といったことが人生には多々あることである。そのような時、一体どうして私だけがこんな目に遭うのか、一体私がどんな悪いことをしたというのだ、この世には神も仏も居らぬのかと、誰もがそう思う。

  生るヽも 育つも老ゆるも 死も共に
    皆囚縁の 末と知れかし (二〇〇〇) 

 四苦(生・老・病・死)や八苦(愛別離苦・怨憎会苫・求不得苦・五蘊盛苦)を説いたのは仏者であったが、誰知らずとも、自己やその一家に積もり積もつた業・因縁あるが故に、時が巡って来ると忘れた頃に、よもやというような出来事が起こって来て、己れや親・先祖からの過去の罪の償いや贖いを仮借なくさせられて、そのために人は嫌というほど泣く目に遭わされ、死ぬような辛い思いをする。
「なぜ、どうして」と思うようなことであっても、大抵三〜四代まで遡って己れや親・先祖の過去の所業と死後の霊魂の有様を幽観し、知悉することが出来るならば、己れや家族に起こるすべては、良かれ悪しかれ、まさに親・先祖から己れに到る一切の所業の報いであり、誰を恨むことでもなく、「一切は自業自得」というべきものと分かることであろう。

 本田親徳翁の『道之大原』には次のように述べている。
 大精神は悪無く而して始祖も亦だ悪無し。裔孫千百中偶(たまた)ま悪罪有る者は悉く皆自業自得にして、始祖の遺(のこす)に非ず。

 つまり、此の世を創造された大精神(天御中主大神)も、万物の始祖たる伊邪那岐・伊邪那美二神も、決して此の始めから悪の種というものは人類に遺してはおられず、人にたまたま悪あるは、すべてこれ、先祖から己れに到るこれまでの一切の所業にこそ原因があるのだ、と云うのである。それは自ら神を厭離して、己れのする事為す事すべてが我情我欲に走り、人として踏み行うべき天地自然の大道(惟神の道)を疎かにしたためなのであって、誰を恨むでもなく、一切は自業自得なのだと教えているのである。
 「親の因果が子に報い…」という言葉は、幼い頃お祭りに出しものをしている見世物小屋でよく聴いたものである。がしかし視点を変えれば、人はこの業・因縁に泣くことによってこそ、初めて己れや一家のそれまでの生き方の誤りに気付き、心の底からの深い改心・反省も出来て、真に神仏に手を合わせることも出来るようになり、心経や念仏の一つも心底出てくる…というものであるから、逆説的な言い方ではあるけれども、「業・因縁有難し…」とも言い得るのである。
 ところが神仏や死後の霊魂の存在を信じることのできない、即ち「見えないものは信じない」といった、科学迷信に陥り頭でっかちになった現代人には、とてもそこまでの深い「気付き」がない。一寸先の分からぬ吾が身である、という己れの無力さに全く気付かず、「露よりもはかない吾が命」である、ということすらもわからず、自分の「生命の元」への一片の感謝の心もなくして、日々自分勝手に、傲慢そのものの生き方をしていながら、それで立派にこの世が通れるものと思い込んでいるのであるから、何とも始末におえない。
 己れのしたことはすべて善悪共に報うてくるものだということは、一昔前の家庭であれば、どこの親でも子供たちに言って聞かせていたものだが、戦後生まれの親の厳しい躾の出来ていない今の親たちは、そのほとんどが、神的なもの(神・佛・先祖の霊魂)への「畏敬の心」や「感謝の心」をスッカリ喪失してしまっており、誰もがこの世を我が侭勝手に生きて行けるものと錯覚し、何事でも、「耐え忍ぶ」という精神などかけらも無く、〈吾れ良し〉の固まりの如くなのであるから、そんな親たちに育てられた子供たちが今どんな状態であるかは、今更此処に言うまでもなかろう。

  吾が子等の なりふる様は 皆われの
    うつし絵なるぞ よく悟れかし

畏敬の心を失うと、如何に人々を狂わせ世の混乱を招くことになるか、今日の状況がそれを雄弁に物語っているのである。
 斯様に、親子三代に渡って、物の道理や常識といったものが全く通らない生き物と化した今日、如何にしてこの人心荒廃した惨憺たる状況を祓い清め、もとのうるわしい日本人の精神を取り戻すか…ということは国の行く末を憂うる者にとって、大変大きな且つまことに至難な問題なのである。




       (『日本神道の秘儀』より掲載)

神と人のあり方 2                           文学博士 渡辺 勝義
『御神歌集』にみる神と人のあり方

平成19年9月 社報やまもも第38号より
神智と人智
 此の中に つまらぬものは 人の智恵 
  使うにつれて 世を乱しゆく   (47)

 神の智恵 氏子の智恵と 比ぶれば 
  この天地と けしの一粒    (466)

 こざかしき 人の智恵にて 生み出だす
  教へは教へに 非ざると知れ  (1988)

 私たちは普段考えても見ないことかもしれないが、「一寸先は闇」と言うように、本当は五分後に起こる出来事さえわからない〜障子一枚隔てた先に果して何かあるかも分からない〜無知で無力な存在なのだということを知らねばならない。

 我が智恵は 本来無きもの あるなどと
  慢心すれば それが災ひ  (1839)

 智恵と言ふ ものは此の世に なきものぞ
  神の霊より いただくが智恵 (1840)

 人は何故に病気・事故・災難に見舞われるのか、この世の一体何が真に善で、何が悪なのか…といったことは神ならぬ身の知る由も無い。神にとっての善が何であるのか、そもそも神ならぬ身の私たちの浅い人間智恵で分かるはずが無いのである。

 己がなす 明日の業さえ 知らぬ身が
  神のみ智恵を 押し計るとは (1581)

 神の智恵 神の情けの 深さをば
  など己が智恵にて 計らむとする (199)

 神界の大いなる計らいの前で、人は絶対に傲慢になってはならないのだが、人間はそうした慎みの心を忘れていつしか慢心し、知性・理性で此の世のすべてが分かるかの如くに錯覚して、神があるだの無いだのと議論し、浅はかな人間智恵を働かせては世を乱し、吾とわが身の首を締め付けている、実に愚かとも哀れとも謂うべきである。

 己が智恵 己が力で 世を渡る
  氏子危ない 大怪我の元    (213)

 己が智恵 己が計ひ など捨てぬ
  持てば持つ程 災ひのもと   (1066)

 吾が智恵は 先ずとり捨てて 神の智恵
  授かる氏子 無上第一     (55)

 神の智恵 授かる程に 神の世が
  霧晴るヽが如く 判りゆくなり (542)

 人間は確かに、か弱い存在なのであろう。人は何か権威あるものに依存せずしては、生きて行けないのだから…。わが国だけを見ても、国内には、新旧一体どれだけの宗教ないし宗数団体が存在するものだろうか。ここの神様こそ、佛様こそ、世界最高の神だ佛だ…、或いはこの教団の教祖さまこそ、その御本体は宇宙の根源神だ佛だ、救世主だなどといった偉大な?神仏や生き神・生き佛がたくさんおられて、多くの善男善女の信仰対象になっておられるのである。そして、生真面目な人ほど、一旦信じ込むと、熱烈な信仰者となって、やれ婦人会だ青年会だ、例大祭だなどといっては、大切な仕事や家庭、家族までほったらかしてはまり込み、それどころか、家族や友人知人までも巻き込んで、血道をあげる人々の何と多いことか。
 そうした人々をよくよく観察すると、大抵は、真理に対する広い視野を欠き、己れの好む、あるいは所属する教団や組織に妄信的になっており、他を省みる心のゆとりさえ失っている。その一種凝り固まったような偏狭な心で、世の中を自分の都合の好いように独善的に勝手に解釈し、他を推し量るのだから一層始末が悪い。心素直で熱心な人ほど、素直に熱心に誤り、スッカリ魂の自由性を失って、霊縛(束縛)されてしまっていることにすら気付かない。何かを信じる人は、それほどに内面では囚われきっているのである。また、教団は教団で、信者の自立を助けるどころか、人々の教団への依存心と恐怖心を一層助長させるばかりであり、あわよくば、信者たちに一生隷属させ貢がせるつもりでおり、決して「卒業証書」は出さないつもりなのである。このように、人は依存する対象を間違えると大変なことになるし、一生を棒に振ることにもなりかねない、ということをよくよく知っておくべきである。

 地獄とは 神を疑ひ 己が身で
  己が智恵にて 世を渡る人  (1087)
 
 父や兄 友達などに 智恵借るな
  どうせ浮世の つまらぬ智恵じゃ (513)

 信仰は自由であり、人が何を信じようが信じまいがその人の勝手であり、他人がとやかく口を出すことでもないことは充分わかっている。それで世の中が、世の人々が本当に心の安らぎを得、真にしあわせになれるのなら、それもまた意味あることである。だが、雨後のたけのこのように次々に色んな神仏が誕生するにしては、世の中は一向によくならない。其れは一体どうしたことなのだろうか。また、巷の神々や佛さま方は、余程大きな建物や金銭がお好きと見えるが、顕幽異にして隠り身に坐すまったく何のご不自由もなき筈の神々や佛さま方が、いったい何故にたくさんの金銭や酒や、若い美女をお好みであるのか。
 わが国のみならず、世界を見渡しても、その状況はちっとも変わらないようである。
本田親徳翁は『道の大原』で次のように述べている、上帝は四魂一霊を以て心を造り、而して之を活物に賦す。地主三元八力を以て体を造り、而して之を萬有に与う。故に其の霊を守るものは其の体、其の体を守るものは其の霊。他神有りて之れを守るに非ざる也。是れ乃ち神府の命、永遠に易らず。つまり、自分の内なる神(之を一霊「直霊」と謂う)の他に、自己の外部の神仏が自分を守ってくれるなどということは決してない。「自己の霊を守るのは自己の体であり、自己の体を守るものは自己の霊」なのであり、これこそが厳粛なる神界の神律(規則)であって、これは永遠に変わることはないのだ…と言うのである。

 神の智恵 輝く時に 不浄去る
  不幸・災難 病の元も     (358)

 神の智恵に 頼らば病ひ 不幸なし
  氏子出すなよ 凡夫の智恵を  (359)

 私たちは常識というものを働かせて、邪教や妙なものに騙されぬよう、妖魅や邪霊ごときに、己れの大切な身と心と魂を汚されぬように、くれぐれも注意しなければならないと思う。

 吾が心 空しくなして 拝むなら
  如何なる智恵も その場にて湧く(1726)

 神心 即ち神の 智恵のもと 
  己れの我をば 先づ捨てる事 (1717)

 己が智恵 取り捨てた時 神の智恵
 其の肉身に 現れて出づ   (1225)

 己が智恵 己が計ひ 捨て去れば
 神の御姿 現はるるなり    (543)

 己が智恵 只今捨てよ 愚しき
  小さき智恵が 身の災ひじゃ  (1381)

 借るならば 恩にも着らず 物要らず
  足も運ばず 神の智恵をば  (514)

 神様の 智恵を借りても 借り得ぢや
  御札に来るとも 物要らぬなり (516)

 神様の 智恵ほど優れた 智恵はなし
  これを借りなば 天下無敵ぞ  (517)

 神様に 借りた智恵をば 返さずに
  その儘己れの ものになされよ  (518)


       (『日本神道の秘儀』より掲載)

神と人のあり方 1                           文学博士 渡辺 勝義
『御神歌集』にみる神と人のあり方

平成19年6月 社報やまもも第37号より
幽顕の相関相即
 顕幽は 神の定めぬ ものなれば そのけじめなど あるべきもなし  (1402)

 顕幽を 限るものとて 非ざれば 生死もなきぞ 吾が魂もなし  (1400)
    (『現し世 幽り世と云ふことは本来無い事ぢや』)

 この神歌二首と神言は、昭和二十一年三月三十一日夜のこと、今は亡き牟田耕蔵氏が、神前にて祈念中に突如として神懸りがあり、「吾れこそは本朝第一代神武の帝・大やまといはれ彦の尊を守護し奉りし大山彦の神なり…」「吾れこそは神武の帝の二の妃、みみつやの姫を守護し奉りし浦安の神なり…」「…ここに住吉の大神の御旨をかしこみ、この乱れたる世を救わんと現れたり」と厳かに託宣あって以来、五・七・五・七・七の短歌形式で、夜となく昼となくほとばしるが如くにして、神界から降された神々のメッセージ二千数百首を記録し編纂した『御神歌集』の中より抜粋した神歌と神教である。

 幽界の立場から顕界を語っているこの歌集は、未だ誰にも知られてはいないが、先の第二次大戦直後の、かの希望無き、日々の食料にさえ事欠く、暗闇の如き厳しい社会状況の最中にあって、この存在世界を根底から受け入れ、御国と国民を救わんがための、まさに止むに止まれぬ神々のその大御心が直截に示されている。嬰児を育くむ母親のように、氏子等を慈しみ励まし続けて止まぬ、そのどこまでも明るい神直接の導きのまにまに、宗教の本質をめざして真実生きた、牟田耕蔵氏の真摯なる信仰告白が示されている。

 この『御神歌集』は、そのどれもが幽界の立場から顕界を語っており、そこでは幽が顕に先行し、そこで語られる幽顕関係は、「幽は常に幽にして顕、顕は常に顕にして幽」という幽顕の絶対的相即が神の言葉として語られている。

  此の世とも 叉あの世とも 云ふなれど  皆ともにこそ こゝに在るなり  (89)

  かくり世も 今の世も共に 同じもの 別にへだての あるべきもなし  (90)

 一歩過つと、それは怪しげな新興宗教の教義へとも堕しかねない。そうでないことを示すのは、実は言葉ではなく、生きざまを通してでしかない。「無私の求道心」、それがこの言葉を、この神歌を生み出したのである。その生きざまを知ったときに、その言葉の意味が恐るべき力となって我々に追ってくるのである。幽なる神霊的存在が顕なる言の葉を介在して、直接に神界の神秘を惻々と我々に伝えて来るものが在るのである。幽は「幽即顕」である。ここでは顕は顕、幽は幽と二分した人間的意識界の垣根が見事に崩壊している。

 昨今、顕の力(知)の無さ、人間的なロゴス力のお粗末さが幽に関してあられもない妄想や、流言飛語をばらまく今日の結果をもたらしている。雨後の筍のように陸続と経ち現れてくる新興宗教の教祖ごとき怪しげな宗教家に、最高学府を出たエリートや知識人たちが手もなく騙されるというのは、それは彼等に真摯な体験の無さもさることながら、ロゴスの貧困にこそ真に由来しているのである。
 このことは判断力、つまり「本物を見分ける眼・審神者する力」というものは勉強しても身につかないのだ、ということを証明する以外の何者でもなかろう。ロゴスというものは、体験に裏打ちされて初めて真実の力を発揮できるものなのであり、優れた芸術を体験した人にしか、目の前にある未知の作品が本物かニセモノか区別できないのと同様である。
 正しい芸術というものは芭蕉の言葉を借りて言うならば、流行(現象)と不易(存在)の両方を備えていなければならない。その心を宗教に引き寄せて語れば、本物は顕と幽というこの両者を備えていなければならないということである。今、目の前で作られようとしている新たなる作品も、この両面を備えておればこそ万古の芸術作品と肩を並べることが出来るのである。私たちはこの両面を見極める眼力を保有しなければならないのである。
       (『日本神道の秘儀』より掲載)



◎ 著者略歴 
 渡辺勝義(わたなべかつよし)
昭和十九年生まれ。國學院大学大学院・九州大学大学院博士課程修了。文学博士
現職 長崎ウエスレヤン大学教授・(財)大阪國學院神職養成通信教育部講師。
著書 『古神道の秘儀』、『鎮魂祭の研究』、『日本神道の秘儀』